7.11 「選ぶしくみ」―青い鳥 その根っこを問う 岩槻で会いませんか

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 子どもから年寄りまで、あらゆる日常場面で、「選ぶ」という行為は人間の本性にもとづく自然な行為と思えよう。だが、そうではない。それは歴史的に形成された社会的行為だった。変化があまりにも巨大だったため、個々人の意識にはのぼらなかっただけなのだ。
 あらためて、いまつくづく思う。故新坂姉妹をはじめ、自立に向かってはばたく家準備会メンバーたちの辞書には、「選ぶ」ということばがなかったなあと。写真は、1983年ごろ、越谷市役所玄関前での署名活動の風景。車いすの二人は、左が橋本克己画伯。まだ、あのチェーン式三輪車いすに乗っていない!初々しい姿。右は、故新坂光子さん。周りには、いま、パタパタやぶあくで見かける菊池よし子さんや山本ひとみさんの姿も見える。みんな、自分たちの「足」で街に出るようになって、間もなかった。

 署名?!彼らが寄りあって、ああだこうだと長い時間をかけて、「三つのお願い」を市長さんあてに書き、その賛同を求める署名ではあったが。その、「三つのお願い」とは、彼らが家の奥から出てきて、とりあえずぼくらが住む春日部市武里団地の公民館や公園に集まって、手探りで露店や車いすの練習をしたり、手伝いを募っている、その現状に越谷市も手を貸してくれないかというものだった。

 市職員が介護の手伝いに来てくれないかというようなお願いだった。役所玄関前に出現した異形の者たちに、市はあっけにとられ、追い払うこともできなかった。何しろ通じ合えることばを共有していなかったのだから。だから、要望や署名の文字よりも、出合うこと、伝え合うことが、このことの本質的な意味だったのだ。あなたたちも、出かけてきてくれないか、それだけだ。

 自分たち自身、動けば動くほど、悩みが増え、わからないことが増えていた。こうすれば自立できるなどという答えなどないことが、だんだん見えてきたのだから、かくあるべしというビジョンなど語りようもないのだ。関わっている、ぼくらもまったく同じだった。けっきょくのところ、市は「人の手」を貸そうとは言わず、お金(年間240万円)を出すからこれで「介護人」を2人雇い入れてくれという提案をしてきたのだが。血の通う「人の手」が、「お金」という、まだ多くのメンバーたちにとって別世界の現象でしかなかったものに、すりかえられてしまった。それから何日も何日も話し合った末、一歩後退するつもりで、このお金を受け入れ、関わりのあった人たちの中から、最初の介護人を頼んだのだった。
 
 いま、私たちが向かい合っている福祉や特別支援教育といった支援システムのはらんでいる巨大なすれちがい、かんちがいの水源のひとつが、この時ひっそりと生まれ落ちたのだ。


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はばたく家準備会のメンバーの辞書に「選ぶ」ということばがなかった、という話をしていたのだった。いま「署名活動」について述べたとき、「選ぶ」ということについて、直接には述べなかった。しかし、この一件の中に、「選ぶしくみ」はすでにその姿を現していると、私は考える。

 上の写真は、故新坂光子・幸子姉妹。当時のはばたく家準備会のメンバーは、ほんとうによく市役所に行った。「市長さんへの手紙」を、メンバーが順番に書いて、入れ替わり立ち替わり、市役所へ配達に行った時期もある。また、車いすの支給やヘルパー派遣をしぶる福祉の窓口に、退庁時間になっても、じっと居座り続け、自宅に電話を入れられたりしたこともある。わからないことを、教えてもらいにも行ったし、会報を届けにも行った。くりかえし行くうちに、課長や部長までが、カウンターの中に招き入れ、本人たちの話を聞くようにもなった。

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 ことに故新坂姉妹(上の写真は生活ホームに入居し間もなく亡くなる前の故光子さん)は、家族内のあつれきで、一年中風呂に入れなかったり、味噌汁とおしんこで、少量のごはんしか与えられない日常があり、管理職たちも情が移って、気に病んでいた。
部長だったか、「人権擁護委員会に訴えたほうがいいんじゃないか」と姉妹にアドバイスまでしていた。姉妹は、その「ジンケンヨウゴ…」の説明をしてもらい、部長とはなかよくなっていたが、まったくその気はなかった。

 たしかに、かっての家族は変質し、農村は解体しつつあり、それが彼女たちを追い詰めていた。しかし、だからといって、見知らぬ「ジンケンヨウゴ…」とかいう機関に、家族の成員の所業を訴えたり、圧力をかけてもらうつもりなど、みじんもなかった。彼女たちは、家族の中で、恩間新田の中で生き続けたい。彼女たちが生き続けることで、家族や村がよくなってゆくのでなければ、それはもう家族でも村でもない。それが姉妹の頑強な根っこだった。

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 それは、私たちが「つぐみ部屋」と呼んでいた農家の奥の部屋の暮らしが育んだ哲学であり、文化であったといえよう(上の写真は故幸子さん。生活ホームの自室への出入り)。

 それは、かって東京の自立生活運動を進めていた障害者たちが、自立したい障害者よ、東京へ来たれ!と、全国に呼びかけたことに代表される思想と、明らかに異なるものだった。
また、「私が私であるために」といった発想とも、まったく相いれないものだった。
 ここよりどこかほかにいいところがあるという発想もなかった。
 私はここで、どちらがいいとか、悪いとか、言いたいわけではない。異なる思想があること、
「自立」ということばにこめられた思想は、対立する内容を含んでいることを、伝えておきたいのだ。

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 「選ぶ」という言葉をもたなかった、はばたく家の障害者たち。だが、その思想、文化が、社会に対しくっきりと刻まれるにいたるプロセスは、その対極としての「選ぶしくみ」が、すぐ隣の田圃をつぶして建設されたマンモス団地(上の写真は武里団地)や周辺ニュータウンに流れ込んだ新住民たちの洪水となって、彼らとぶつかることを抜きにはありえなかった。

 新住民たちも、もとをただせばその多くは、東北や北陸等の農漁山村で、「選ぶ」という言葉を持たず代々生きてきた人々だった。初めて祖霊の地を捨て上京し、職業を得て自立し、家族をつくり、幸せに暮らすという物語―自分の人生を自分で選ぶというストーリ―に身を投じた。しがらみを捨て、戦後憲法22条の「居住・移転及び職業選択の自由」を、初めて実現した。
しかし、しがらみとともに、歴史や文化まで、はぎとられ、砂粒になってしまった。夢に見た大都会は砂漠だった。身を寄せ合って新生活をスタートさせた団地は、灰色の巣箱だった。

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 だからこそ、旧住民である障害者たちとの出会いが、自分たちを生きなおすことであり、一緒に関係を編みなおす出発点でもあったのだ。(上の写真右が生活ホーム・オエヴィス、左がくらしセンター・べしみ、その2階の生活ホームもんてん)

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 写真は、車いすの故・木村和恵さんが、通学班で近所の武里小学校に登校するところ。この数年前、近所に養護学校ができたので、教育委員会は「あなたのための学校ができたから、そちらへ行って下さい。」と強く勧めてきたが、親子は拒否した。その後、養護学校が増設され、高等部もでき、これまで中学の特殊学級を出てすぐ就職していた生徒たちは、みな高等部に入るようになった。しかし、強引な就学指導にもかかわらず、共に育てたい、近所の友達と一緒に行きたいという親子は多く、小学部に就学する生徒はわずかだった。

 
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 様相が変わってきたのが、1990年代半ばから。バブルがはじけ、リストラの嵐が吹き荒れ、終身雇用の幻想が崩れた。ニュータウンで築いてきたマイホームの平和も腐食する。家庭がバラバラになる。子どもたちの居場所がなくなる。そして阪神大震災。地下鉄サリン。ロストゼネレーション……大戦間のヨーロッパ、深い不安と緊張を底に秘めた多彩な文化が開花した時代…やがてファシズムに道を開いていったあの時代に比せられる。

 リストラを進める中で、次の雇用の受け皿として、IT産業と福祉ビジネスが華々しく宣伝される。「クリーンなIT」、「ベンチャービジネス」、「強制的な措置型福祉から意志に基づく契約へ」。生活設計を立てることの不可能な不安定な雇用構造を、厚生労働省いわく「多様選択可能型社会」?!

 そう!「多様選択可能型社会」…このようにして、史上二度目の「選ぶしくみ」が作られていった。かって東京砂漠から、第2の故郷を求めてニュータウンに流れてきた人々は、その子どもやさらに孫の世代になって、ささやかに結んだ関係の糸を、再び断ち切られ、「選ぶしくみ」の中に投げ込まれてゆく。

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 「選ぶしくみ」とは、さまざまな可能性としての未来のイメージをメニューとして示すことで、結果としていまここにある関係を見えにくくするしくみ。大地に足を踏ん張って生きている人に、将来の見通しを考えてかしこい行動をとらなくちゃだめだと、誘惑するセールスマン。

 青い鳥、幸せをもたらす鳥を探す旅へいざなう魔法使いのことば。たしかにあちこちに青い鳥がいた。でも、どの鳥も、その場の関係の中から、それだけ取り出そうとすると、色を失ってしまう。メーテルリンクは、そう語っている。チルチルとミチルの冒険の旅が、「選ぶしくみ」の本質を伝えてくれる。
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 「選ぶしくみ」が社会全体をおおっているいま、子どもの世界では、さまざまな子育て支援メニューが並び、学校選択制が導入され、公立高校の学区がなくされ、特別支援教育と称する別枠のさまざまなメニューが、迷いと不安をあおっている。孤立すればするほど、メニューに振り回される。
 いまこそ、足元を、家庭を、地域をみつめよう。そこで一緒に生きているか?社会はそこから見えてくる。
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あたりまえに地域で 一緒に大人になる 共に学ぶ埼玉交流集会画像画像

















メニューがいっぱい!でも 
 「選ぶしくみ」をうたがう


 お話:北村小夜さん(大田・特殊教育を考える会代表、「一緒がいいならなせ分けた」(現代       書館)ほか著書多数)
    門平公夫さん(元児童相談所ケースワーカー、ブックレット「子どもたちは、いま」著者)
    吉田昌弘さん(春日部市障害者生活支援センター「えん」)
 

 昔と比べ、たしかにメニューは増え、選択の幅は拡がりました。が、子供や障害を持った人たちが、分け隔てなく学校や地域、社会で、みんなと共に豊かな生活を送ることができているでしょうか。むしろ、めにゅーが増えたことで「現実」が見えにくくなっている様な気がします。
 たとえば、
 ・あなたはメニューを「選んでいる」のでしょうか。「選ばされている」のでしょうか。
 ・あなたは「過程」を大切にしているのに、常に「結果」だけを求められていませんか?
私たちは、みなさんと交流しながらあらためてこのような「現実」を問いたいと思います。

 日時:7月11日(日)13:30~16:00
 会場:岩槻駅東口コミュニティセンター 048-758-6500
      (東武野田線岩槻駅下車徒歩0分)
 参加費:500円(保育あり)

  主催:どの子も地域の公立高校へ・埼玉連絡会(代表・斉藤尚子)048-676-5008/社団法人埼玉障害者自立生活協会(理事長・坂本さとし)080-6608-1275/埼玉障害者市民ネットワーク(代表・野島久美子)090-4938-8689大坂        

 問合せ・申込み:048-737-1489(黄色い部屋) 048-942-7543(竹迫)
       
→「メニューがいっぱい!でも 『選ぶしくみ』をうたがう」の記録については、社団法人埼玉障害者自立生活協会「通信」NO.152に掲載しました。お読みになりたい方は、下記へ。
 
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  Tel&Fax 049-266-4987 郵便振替:00180-2-566719 
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