夏合宿の原風景―1978年川口とうなす会との合同合宿 わらじ夏合宿史の試み―Ⅱ
1979年、日立・河原子海岸での合宿。浮き輪につかまって引っ張られているのは、故・新坂光子さん。会が発足して二度目の夏合宿だったが、初年度の夏合宿は先輩団体である川口とうなす会と合同で、じっさい川口の人々の企画立案に便乗した感が強いので、この年が会のオリジナリティによる初めての夏合宿といってよかった。
1978年の川口とうなす会との合同夏合宿については、「地域と障害―しがらみを編みなおす」の中で、筆者がつぎのようにふれている。
川口とうなす会の中心メンバーたちは、関西のニュースを伝え聞きながらも、自らの道を歩み続けた。将来のビジョンとして考えたのは、川口にグループゴリラのような数百名規模の集団を作り、彼らを市内各地区に配置して、地区ごとに障害者自身の生活づくりの運動をつくってゆくことだった。
「1978年、川口とうなす会とわらじの会の最初で最後の合同の夏合宿が、200名の参加で伊豆で行われたが、この合宿はいまから思えば介助者を障害者の手足に徹することのできる者として鍛えぬく、まさに地獄の特訓のようなプログラムで行われた。とはいえ、当時はそんな背景も知らず、またわらじの会の障害者たちが生まれて初めて海に入る感動に誰もが浸っていた。そして、ちょっとした成り行きで、その後二つの会は別々の歩みをたどるようになっていったのだ。」(地域 「障害が照らし出す地域―わらじの会の30年」)
写真は合同夏合宿のスナップ。この「障害者の手足」論は、重度障害者が意志表示し、共に社会を作ってゆく主体となるためには、まず介助が無条件に保障されなくては成り立たず、しれを前提として初めてけんかしたり考えあったりできる関係に立てるのだという認識に基づく「健全者友人組織」の流れをくんでいた。障害者―健全者という図式は、学生が多かった川口とうなす会にはぴったりくる感じだったが、家族やクラスメート、ご近所といった関係も多かったわらじの会にはいまひとつの感があった。
平野栄子は、前掲書の中で、つぎのようにこの合同合宿について書いている。
「伊豆下田の廃校となった小学校を借りての、自炊合宿となった。それまで障害のある人と一日中過ごすことはあったが、二泊三日の合宿はまったく想像を超えるものだった。
当時、子供は6歳と3歳、介助しながら子供たちの世話は無理だと考えていたので、両親に子供たちの世話をたのんで出発した。私は大きなリュックを背負いながら、後ろに荷物をたくさん積んだ光子さんの車イスを押した。なにしろ光幸さんにとって初めての海水浴だったし、長旅でもあった。私は何か不測の事態が起きはしないかと恐れ、不安で極度に緊張していた。
そんな時、「ママ―、行かないでー。僕をおいてかないでー」と長男が後ろから追いかけてきた。そのあとから母も「子供を置いていくんじゃない」と怒鳴って追いかけてきた。私は「行かなくちゃ」との責任感で振り向くこともできず、せんげん台駅まで必死に車イスを押し、なんとか参加した。今でもその光景は忘れることができない。」 (ご近所 「ながーいつきあい!」)
平野が「不測の事態」と書いているように、筆者も、この後何年かの夏合宿では、2泊3日の間、仮眠しか取らず、夜の見回りなどをしていた。合宿中については、やはり「障害者の手足」論を踏襲していたわけである。また、平野が書いている「不安で極度に緊張」という状態は、実行委員を担ったものの多くが共有していただろう。そんな状況を何が支えたのだろうか。
樋上が書いているように、往復は大部隊により、交通機関や街に大風を吹かせ、人々の手から手へと関わりのリレ―をつなげながら移動してゆく。
「駅の階段では、車イスの参加者を皆で他の乗降客と共に担ぎ、路線バスでは貸し切り状態で地元の乗客がびっくりする中、新坂光子さん、幸子さんらをおんぶして乗り、席に着かせた。参加者が苦労を共にする時代だった。そして当時は年1回心おきなく入浴できることが楽しみな光子さん、幸子さんらと、戸惑いながら、ときめきながら、力強く介護する仲間がいた。そんな時代が確かにあった。」
緊張や不安をカバーし、出てゆくことをかろうじて支えたのは、さまざまな人々が出合いながら街を変えてゆく予感だったのではないだろうか。
雑多な人々が一緒に行く手をきりひらきながら進んでゆく―聖地をめざす巡礼団のように、「今年は世直り ええじゃないか」と叫んだおかげ参りのように。
夏合宿の「ええじゃないか」時代は、この後9年間続く。
→わらじ夏合宿史の試みⅢ https://room-yellow.seesaa.net/article/201008article_3.html
1978年の川口とうなす会との合同夏合宿については、「地域と障害―しがらみを編みなおす」の中で、筆者がつぎのようにふれている。
川口とうなす会の中心メンバーたちは、関西のニュースを伝え聞きながらも、自らの道を歩み続けた。将来のビジョンとして考えたのは、川口にグループゴリラのような数百名規模の集団を作り、彼らを市内各地区に配置して、地区ごとに障害者自身の生活づくりの運動をつくってゆくことだった。
「1978年、川口とうなす会とわらじの会の最初で最後の合同の夏合宿が、200名の参加で伊豆で行われたが、この合宿はいまから思えば介助者を障害者の手足に徹することのできる者として鍛えぬく、まさに地獄の特訓のようなプログラムで行われた。とはいえ、当時はそんな背景も知らず、またわらじの会の障害者たちが生まれて初めて海に入る感動に誰もが浸っていた。そして、ちょっとした成り行きで、その後二つの会は別々の歩みをたどるようになっていったのだ。」(地域 「障害が照らし出す地域―わらじの会の30年」)
写真は合同夏合宿のスナップ。この「障害者の手足」論は、重度障害者が意志表示し、共に社会を作ってゆく主体となるためには、まず介助が無条件に保障されなくては成り立たず、しれを前提として初めてけんかしたり考えあったりできる関係に立てるのだという認識に基づく「健全者友人組織」の流れをくんでいた。障害者―健全者という図式は、学生が多かった川口とうなす会にはぴったりくる感じだったが、家族やクラスメート、ご近所といった関係も多かったわらじの会にはいまひとつの感があった。
平野栄子は、前掲書の中で、つぎのようにこの合同合宿について書いている。
「伊豆下田の廃校となった小学校を借りての、自炊合宿となった。それまで障害のある人と一日中過ごすことはあったが、二泊三日の合宿はまったく想像を超えるものだった。
当時、子供は6歳と3歳、介助しながら子供たちの世話は無理だと考えていたので、両親に子供たちの世話をたのんで出発した。私は大きなリュックを背負いながら、後ろに荷物をたくさん積んだ光子さんの車イスを押した。なにしろ光幸さんにとって初めての海水浴だったし、長旅でもあった。私は何か不測の事態が起きはしないかと恐れ、不安で極度に緊張していた。
そんな時、「ママ―、行かないでー。僕をおいてかないでー」と長男が後ろから追いかけてきた。そのあとから母も「子供を置いていくんじゃない」と怒鳴って追いかけてきた。私は「行かなくちゃ」との責任感で振り向くこともできず、せんげん台駅まで必死に車イスを押し、なんとか参加した。今でもその光景は忘れることができない。」 (ご近所 「ながーいつきあい!」)
平野が「不測の事態」と書いているように、筆者も、この後何年かの夏合宿では、2泊3日の間、仮眠しか取らず、夜の見回りなどをしていた。合宿中については、やはり「障害者の手足」論を踏襲していたわけである。また、平野が書いている「不安で極度に緊張」という状態は、実行委員を担ったものの多くが共有していただろう。そんな状況を何が支えたのだろうか。
樋上が書いているように、往復は大部隊により、交通機関や街に大風を吹かせ、人々の手から手へと関わりのリレ―をつなげながら移動してゆく。
「駅の階段では、車イスの参加者を皆で他の乗降客と共に担ぎ、路線バスでは貸し切り状態で地元の乗客がびっくりする中、新坂光子さん、幸子さんらをおんぶして乗り、席に着かせた。参加者が苦労を共にする時代だった。そして当時は年1回心おきなく入浴できることが楽しみな光子さん、幸子さんらと、戸惑いながら、ときめきながら、力強く介護する仲間がいた。そんな時代が確かにあった。」
緊張や不安をカバーし、出てゆくことをかろうじて支えたのは、さまざまな人々が出合いながら街を変えてゆく予感だったのではないだろうか。
雑多な人々が一緒に行く手をきりひらきながら進んでゆく―聖地をめざす巡礼団のように、「今年は世直り ええじゃないか」と叫んだおかげ参りのように。
夏合宿の「ええじゃないか」時代は、この後9年間続く。
→わらじ夏合宿史の試みⅢ https://room-yellow.seesaa.net/article/201008article_3.html
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