共に!の思い、差別への憤り、もろもろが合宿へ煮詰まっていった1979年夏―わらじ夏合宿史の試みⅢ

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さて、1979年、わらじの会2年目の夏合宿。初めての会単独での夏合宿。それまで、毎月毎月、日帰りの小さな旅のような例会、そして冬にも一泊の雪遊びの合宿を、いつも大人数で重ねる中で、各人それぞれに現在の暮らしとこれからの人生を考えてきたと思う。しかし、あらたまって、各々の思いをつきあわせる機会は、不十分でしかなかった。

 たとえば、いまは仏師となり会の活動には参加していないK(当時22歳)は、月刊わらじ10号(1979年2月号)で「もっと会いたいよ~」と題して、次のように書いた。「…月に一度だけだと叱らなくてもすんでしまいます。もちろん例会の場は楽しくやるのが第一ですから、多少のことはかまわないのだろうけど。だから例会以外で遊びに行ったり、遊びに来たり、叱ったり、叱られたり、飲んだり、飲まれたり(もちろんアルコール)、そんな友達が作れたらいいなあと思っているんです。また、こんなことを話し合える場があったらなあとも思います(冬の合宿の反省会で、いつ行ってもわらじの仲間がいるようなたまり場(わらじ虫の吹き溜まり)をいつか作ろうという話があったんです)。
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 月刊わらじ11号(1979年3月号)では、「くやしかったこと」という特集を組んだ。わが子が就学を拒否されたこと、近所の子がそれをからかったことが、いまでもくやしいと書いた親がいた。移動入浴を担当していたヘルパーさんからは、よい仕事をするためにヘルパー同士の勉強会や話し合いをもったところ、上司が全員を異動させようとしたという原稿が寄せられた。野沢代表は、かって中学生のとき、担任が家に来て、修学旅行に行くのは大変だからやめてくれと言われたことがくやしかったと書いている。故新坂光子・幸子姉妹は、「くやしかったこと」として、一番目は動けないこと、また動けない人は馬鹿だと言われること。二番目は汚いからと言われ、みんなと一緒に食事できないこと。三番目はガラス戸を開けておくと、みづれえからと閉められてしまうこと、と口述筆記で書いている。会のメンバーの近況のページには、橋本克己一家が、本人の嵐山コロニー入所決定を蹴り、一緒に地域で生きる道を探すことに踏み切ったことが報告されている。

 そして、いま会報綴りをめくっていて発見したのだが、わらじバザーは、この2年目の6月に初めて行われたのだった。これまで1年目からやっていたと思い間違いをしていたので、今年からは「第 回」というのを訂正しなくては。趣意書には次のように書かれている。
 「会員の一人ひとりが『私の会でもある』という自覚を持ち、これまでは寄付等に頼っていた資金も、これからは自分たちで作っていこうということになりました。その第一歩として、来る6月3日に越谷公民館において、わらじの会のバザーを催すことになりました。」

 月刊わらじ15号(1979年7月号)では、会の懸案だった事務所の計画について、野沢代表が巻頭で以下のように書いている。原文は障害者用のかなタイプ。
 「さいきん このおれに やましたさんは いろいろなことを たのむけれど もしできることはいいけど できないことを いわれたばあいは このおれには ことわることができず そしてあとでかんがえてみると こうかいをすることが おおくて こまり たとえば じむしょのことも そうなのです でも やるといったからには じむしょのいえが みつかり そして でき なにがなんでも まもらなければ いけないと おもうのです もしも じむしょにいても まいにちだれかは ようがあっても なにがあっても よびだされなくても きてくれないと このおれのほかの しょうがいしゃのひとが とまりこんで びょうきになっても かいごは できませんからね それから しょうがいしゃのひとを つれてきて そのばに おいていかれても こまりますから さいごまで かいごをしないと だめだとおもう このおれも できるかぎりは かいごがほしいです それは つかれてくると からだが おもうように うごきが とれなくなると こまります わたなべがくえんの やたべさんや そのがくゆうが そつぎょうをして ぜったいに ちいきに しゅうしょくをして くれないと こまります からね これは ほかの がくせいさんにも いえることです かいのみなさんも ごきょうりょく おねがいしますね」

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(上の写真左が野沢代表)

 月刊わらじ16号(8月号)では、新坂きみ子と母の口述筆記の後に、筆記者の傘木由紀子が次のように記している。「きみ子一人残して死にきれない、できれば一緒に死にたい と言ったお母さんの言葉に、死なない と大粒の涙流して泣いたきみ子さん。明日の福祉がより充実になるよう願わずにはいられませんでした。」
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(上の写真寝ているのが新坂きみ子、立っているのが傘木)

 このような新たな取り組みや思いや計画のひとつの集約点が、夏合宿になっていった。月刊わらじ16号には、夏合宿実行委員長の平野栄子(・「地域と障害―しがらみを編みなおす」の著者の一人・谷中耳鼻科の隣家の主婦)が、スケジュールを発表し、「今年の合宿は討論を中心にして交流を深めたいと考えて来ました。幸いに、茨城県で活動している地域の人たちも参加(10人ぐらい)してくれることになりました。意見を交換して交流しましょう。」と書いている。
その平野は、前年の川口とうなす会との合同合宿では、泣き叫んで追いすがる子供を振り切って参加したが、この合宿には下見の段階から子連れで関わった。少しずつ、家族のありようも変わりながら、活動が重ねられていったのだ。(写真はすべて1979年河原子での夏合宿スナップ)
→わらじ夏合宿史の試みⅣ https://room-yellow.seesaa.net/article/201008article_4.html

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