「真夏の夜の夢」ー1979年日立・河原子合宿のてんまつ わらじ夏合宿史の試みⅣ
今年の夏合宿(秩父・小鹿野)が明日に迫ってしまった。この夏合宿史の試みを合宿前にまとめようと考えているので、ここからは駆け足にしよう。まずは、会発足後1年半をかけて、さまざまな出会いとすれちがいが重ねられた、その凝縮としての1979年日立・河原子海岸での夏合宿(写真)の結果を述べよう。
この合宿は、会単独としては初めての夏合宿(前年は川口とうなす会と合同)であった。樋上秀が書いているように、現在のような班し」行動ではなく、「皆一緒に号令の下アクセスし」、「参加者が苦労を共にする」、行軍のような往復だった。そして、波が荒いといわれる日立の海に、これも一斉行動で、緊張しながら入った。疲労が頂点に達した二日目の夜に、この合宿の最大目標として、準備してきた討論会が開かれた。
討論会には、この合宿には参加しなかった川口の八木下浩一氏のつてで、地元の那珂湊の「障害児・者を地域に戻す会」の人たちが参加してくれた。その中には、青い芝のメンバーや先天性四肢障害児父母の会の親子、そして県立コロニーの職員たちがいた。
司会は、二人の障害者が務めた。一人は施設入所中。もう一人は在宅で街に出始めたばかり。「障害児・者を地域に戻す会」の人たちの参加によって、討論は一挙に「地域と施設」をめぐって展開していった。
この討論会の記録は、後日、「なぜ施設なんですか」という手書きの報告週にまとめられた。詳細は別の機会に譲る。たとえば、次のようなやりとりがあった。
まず司会から、わらじの会の親たちに対して、障害者のめんどうをみられなくなったとき、施設に入れようと思っているかという質問がなされた。「まだ考えていない」という親に、「入れる可能性はあるんですか」と訊いた。「そこまで考えていない」という親や、「考えている」という親など。逆に、親の方から、「障害といっても幅が広いし、もし親が身動きできなくなった時、親が安心していけるだけのものが今あると思うか!」と、司会者に問い詰める親もいた。「戻す会」の親は、養護学校高等部で卒業後のことを考えるようになってから、こうした隔離された場に入れたのはまちがいだったと気づいたと語った。
司会はつぎに、市のケースワーカーをしている参加者に対し、親が子を施設に入れたいと言った場合どうするのかと訊いた。障害者本人はどんな生活でもいいから親と一緒にいたいのが本音だが、黙っている状況だという。ケースワーカー5年目だが、親の希望で施設に入れた人が20人くらいいるとの答えだった。「戻す会」の親からは、施設入所は親と子の話し合いの中で決めるべきだという意見。
さらに司会は、本人たちに、親から施設に入れと言われたらどうするかと訊いた。「おうちにいる。入りたくない。」、「僕は前に施設に入っていたので、僕は入りません。」、「僕は施設に行ったことがないので、わかりません。これから勉強したい。」などの答えがあった。
わらじの会の別の親から、「親と子で話し合って、親が死んだらおれは食ってけないから、じゃあ施設へ行こうなんて結論出るわけないし、親も、じゃ入ってくれるのか、ありがたいというような対話なんてできない。」という反論がなされ、司会の施設入所者に対し、「自分の意志で施設に入ったとのことだが、考えを聞きたい」と質問が投げかけられた。これに対する答えは、「施設について学びたかったので自分から入ったが、入らなければよかったと思っている。人間扱いされない。風呂にもっと入っていたくても出されてしまう。親を施設へ呼んでも、なんで呼んだんだ、うちは忙しいとすぐ帰ってしまう。家に帰った時、こういうことをしたいと言っても頭から反対される。だから会話はまったくしていない。」ということだった。
わらじの会の親からは、司会に対し、「もし人間扱いされれば収容施設を認めるのか」と問いかけた。司会は「けっきょくは管理者が健全者で、障害者が収容されているのだから、同じ。認めない。」と答えた。
ここで、「戻す会」の障害者から、「親が現実を踏まえて何をやるのかということが出ない限り、こういう討論会を何回やってもムダだ。」との批判が出された。
わらじの会の親からは、「模索しているのが現状。わかっていればこういうところで話し合う必要もない。ただ、本人自身がどういう生活をもっていくかということもある。親だけにかぶせられても困る。」との意見。「現在幼稚園に通わせているが、まず普通学級に入れて、近所の子といっしょに通わせたい。」という発言もあった。
「戻す会」の親からも、「まず障害者が社会へ出てゆくことによって、認めさせてゆこう。親になんの努力をしているのかと求めることは疑問。そういうことだから、施設ができている。」という反論が出された。
それに対し、「戻す会」の障害者からは、「障害者が社会から葬りさられるという時、まず身近な親によって葬られる。施設がいやなんだ、地域で生きていきたいから生活の場を考えてくれと、そこまで言わないと親はわからない。」と、説明された。
わらじの会の親からは、「親がいたから障害者だって生まれてきたんでしょ。親が親がと四の五の言うな!」と反駁があった。そして、「親ばかりでなく、他の人にも訊いて下さい。」と司会に注文が付けられた。
そこで、司会は、施設職員や保育専門学校の学生、その他の人々に、施設をどう考えているか、訊いてゆく。
「施設指導員は、街の人たちと一緒に施設を運営してゆきたいと言う一方で、社会に出たことのある障害者について、周りから影響を受けて純真さが失われ、扱いにくいと言う。」、「施設は知らないが、障害者ばかりがいるのもおかしいし、健全者ばかりがいるのもおかしいなと思う。」、「本でしか知らないので、答えられない。」
会社員の参加者から、「現状では施設が必要と思う。」という発言もあった。
「戻す会」のメンバーで入所施設の生活指導員をしている人からは、「日中は作業、終わると帰ってきて食事して寝るという毎日。働く者食うべからずという考えで、寮生の欲求は切り捨てられる。作業以外でも個人的時間はなく、集団でまとめて行動させられる。自分も指導員だが、疑問を持っている。寮生とつきあってゆくといっても、8時間労働の中だけで、あと16時間は自分の中では切り離されている。自分の生活も変えていかなくては、障害者とつきあっていることにはならないと考えている。」との報告がなされた。
司会は、わらじの会の参加者で、保育専門学校を卒業したら施設職員を希望している学生に、その理由を問いかけたところ、「本を読んでなりたいと思った。一大決心がないと、施設職員をやってはいけないのか。」と学生。
司会は、「あなたは障害者を隔離したいのか」と訊く。学生は、「施設に行ったこともない。隔離するということをこの頃知ったわけで、実感がない。答えようがない。」と述べる。司会は、「一度施設に来て下さい。もし隔離されていたら、施設の職員になることをやめますか」と問う。学生は、「もしそういうことなら、自分一人でもなんとかしていきたい。」と答える。
「戻す会」の施設職員は、「施設はたしかに隔離収容しているのだが、やめるつもりはない。今やめても何も変わらない。問題をつかんだらそこでやること。障害者につきあげられてやめることでは、問題の解決にならない。」と述べた。
司会は、施設入所の決定を受けながら、入所を中止した親に、その理由を訊いた。「大きくなってどこにも出られず、暴力をふるうようになったので、施設を考えたが、わらじの会に参加してから本人も変わってきたし、集団生活で雰囲気が悪かったので断った。」と答えた。
司会が入所している施設に大学のボランティアサークルとして入っている参加者は、施設の印象を「隔離された病院という感じ。在園者の要望を受け入れると、管理者からクレームがつく。協力はしたいが、サークル内でももめると思う。ただ、今の日本で施設をとっぱらうと、障害者は宙に浮いてしまう。」と述べた。
その後、「戻す会」の親から、わらじの会の「施設は必要」と述べた会社員に質問があった。「何をどうしていけば、施設を作っている社会条件を取り除く方向になると思うか?」。会社員は、「障害者自身が考えることだと思う。その中に自分達ができることがあれば、末永く協力していきたい。」と答えた。それに対し、司会は、「施設をやめろとなぜ言えないのか」と訊く。「他の方法で生活できるのなら、施設とは言わない。今の状態だと言いきるのは難しい。」と会社員。「がんばって活動できない人は黙っていろということか」と司会。「自分達も変わることに努力しているが、急に変えるといっても難しい」と会社員。
「施設が本来あるべきだ、ないべきだと言っても無意味だ。施設は現にあるのだし、どんどんできている。それに対してどうなのかだ。」と、この発言だけが筆者。その後、間もなく、時間切れで終了した。
まさにハードな夜だった。まだ自立に向かってはばたく家準備会(1981年~)の日常活動が始まる前のわらじの会では、これ以上議論を深めようがないというところで幕切れとなった。
合宿参加者の中で、20人くらいの学生たちが、「海に来てまで討論なんて」と反旗を翻し、夜の浜へ行ってしまった。この合宿中で、唯一、一斉行動が崩れた時間だった。とはいえ、大きな亀裂をはらみながら、三日目の合宿プログラムは来た時と同じように、整然と遂行されたから面白い。
月刊わらじ17号(9月号)巻頭で、野沢代表は「おれのがっしゅくのできごと」と題して以下のように書いている。
「このおれは がっしくにいくまえは とうろんかいで しゃべることが できるか どうか しんぱいで いつも なやんでいた そして しままつくんと あうたび しょぼくれていると おれに ありのままのことを あんまりかんがえこまないように しゃべればいいんじゃないと あどばいすを してくれた だけど きになって かんがえれば かんがえるほど がっしくに さんかするのが いやになって いくのが おくうになったこともあり こうして がっしくにいったら だい1にちめのよるは きゃんぷふぁいやーに いくきで いったら このとき きゅうに とうっろんかいの うちあわせがあるから といわれたので いかれず がっかりした こんどは はんせいかいで あす かいすいよくをするには かんしたいせいを きちんととらなければ なみがあらいから じこがおきると いわれて そこで いろいろと おせきょを うけて だれかに どうだと いろんなことを いわれないと きがつかないのです そして いわれると どうしたらいいのかと わからなくなってしまう それで かなしくなって めじめになる だい2にちめは おれは かんしを していたけれど なにも なかったことは いいけど もし なにかおきたら いろいろ いわれるだろう これで やくにたったか たたないか わからないまま おわり そして よるの とうろんかいは けっきょく ひとくちしか しゃべんなかった おれは こんかいの がっしくは きゃんぷふぁいやーは できず かんしのことで いろいろと いわれて とうろんかいのことで なやんで こうして いろんなことが あって それで くるまいすを だれかに こわされて くやしくて しょうがないです だから あんまり いんしょうなく おもしろくなかった (のざわ けいすけ)」
後日行われた夏合宿の反省会では、討論会に参加しなかったメンバーから、「討論には出たくなかった。わからないというのが本音。あのような形式では参加できない。目的意識がちがっていたのではないか。もっと海で楽しんだほうがよかった。」、「テーマが親同士、障害者同士の問題だった。わらじの1年をふりかえって…というテーマだったら、参加できた。」などの意見が出された。
討論会に参加した者からも、「行く前から討論、討論と言っていたけど、成果が出たのか。もしあのような討論をやるなら、日をずらして別の機会にやるべきではないか」という批判も出された。
実行委員会を担ったメンバーからは、「わらじがこのままのメンバーで続けられるのであれば、話し合う必要はない。わらじの会で、共に生きるみたいなことを言っているけれど、ほんとにそうなのか。順調にいくわけないんだから、自分たちがそれをみつめあうのが、当初の目的だったんではないか」などの意見が出された。
親亡き後問題、共に生きるための地域活動やその拠点問題、学生介助者の卒業問題、隔離収容型福祉とどう向き合うかなどたくさんの課題を抱え込んでいた当時のわらじの会。それらを詰め込んで、消化不良のまま終了。おっちょこちょいの妖精パックのいたずらとまちがいにかき回された真夏の夜の夢。
だけど、その思い違いやすれちがいが、今からふりかえれば、とても大切な意味をはらんでいた二泊三日。…そして、再び地域に帰ってきて、日常が始まった。
→わらじ夏合宿史の試みⅤ https://room-yellow.seesaa.net/article/201008article_5.html
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