病院の開放で 病は人に社会にひらかれたか ― 赤松晶子さんのお話
GH・CHテレサ勉強会「開かれた病への模索 精神病って…あなたのイメージは?」 1961年から昨年8月退職まで半世紀にわたり精神科病院で臨床心理の仕事をして来られた赤松晶子さんのお話。
1933年生まれの79歳。初めて働いた病院の大部屋で後ろから患者さんに「朝鮮人!」と言って叩かれた。当時は自分も白衣を着ていたので白い服を着ている人が多かった朝鮮の人に間違われたのだろう。朝鮮戦争の記憶がまだ鮮明で朝鮮人への露骨な差別が残っていた時代。その人も差別の場面に出会っていたのだろう
。
その話を語り合えればいいのに、精神医学ではただ「幻聴」とか「妄想」と断じて終わらせてしまう。時々首をあげて上を見る患者さんもいた。B29の空襲の記憶が焼き付いている。
ある患者さんは兄の創った歌を自分の名前でコンクールに応募し入賞してしまい自分を責め厳格な兄に告白もできず悩みぬいた末、動くことも食べることもせずじっとしている状態になり入院してきた。医師は「統合失調症、寡黙、思考伝播」と書くのみ。
別の患者さんは大好きなおばあさんが亡くなった後幻聴が聞こえるようになったが、その幻聴により癒されている面もあった。。「幻聴」とか「妄想」として症状化されてしまう行動の中にこそ本人の生きざまが濃縮されている。だが医療スタッフは患者さんと「幻聴」や「妄想」の話をしたりしないほうがいいと言う。
赤松さんの働いてきた精神病院は当初の鉄格子の牢獄のイメージから開放的なリハビリの場のイメージに外見的には変化したが、人を症状で視る本質は変わっていないし、脳疾患説の強調と新薬の多用により対象者とされる人々はかえって増えている状況がある。
今日初参加者の中に20年前入院中に赤松さんが担当した「自分を語る会」に参加したことをうれしそうに話す人がいた。いま市内で独り暮らししている。互いにうれしい再会だった。
以下に、当日の案内チラシと、筆者がfacebookに載せた案内文を紹介する。
私が関わっているGH/CHテレサの勉強会が週末に。お話しいただく赤松晶子さんは「分裂病者家族宛て掲示板 」に以下のように書き込んでいます。
「私は、精神医療も一対一のカウンセリングも、「病」を閉塞させてゆくものになっていないか、と、その道を40年歩いて、今思う。
なぜ、その道・臨床心理学を選び、疑問と不充足感の中、歩み続けてきたのだろうか、と自問する時、私の想いは様々な道程を過去へとたどり、ある原体験とも言える場面に立たされる。
(情景一)小学二年の時、大東亜戦争が起こった。日本大和民族年号が謳歌され、「紀元は2600年!」という大合唱の中、国民総動員制が敷かれていった。日の丸の旗、提灯行列に彩られて勇ましく報じられた「真珠湾攻撃」。わが家の茶の間の壁には、世界地図がはられ、大本営発表に基づいて、日本軍の進出が報じられると、いち早く兄が日の丸の小旗を地図に刺してゆく。その小旗は町内会全家族に配られ、一時は支那大陸からシンガポール、ポルネオ、スマトラなど東南アジア全体にヒラヒラと刺し込まれ、世界地図全体を埋め尽くす幻想をいだかせた。
しかし、その後 間もなく、小旗はどこに行ったのか、地図そのものが注目されなくなった。それでも、“最後には、日本は神風が吹いて敵はやっつけられるんだ”という神話が子ども心を勇気づけ、不安、疑問を忘れさせた。」
このことについて、社会臨床学会の記念講演レジュメでは次のように述べています。
「B-29の轟音と爆撃の恐怖。お国を守る兵隊さんの勝手さには頭を下げ、他方、お国の違う人を侮蔑する見方を沁みこませてゆく。女性差別・民族差別は更に精神病者差別と重なり課題になり続ける。
……今ほとんどの病院が点数がらみ施設を建て替えている。しかし、保護室の作り、有り様はおなじである。過去の記憶は消えない。入院を強制されて受けた屈辱感に、“絶望的になった”、“生きる力を奪われた”と、その個々の人々は自尊心を深く傷つけられるものになり続けている。
その後、そこにいた人たちのうち生活の場を持てた人はわずか。多くの人が病院の中で、あるいはどこかの施設に移され、寝たきりのご老人になってゆく。そして、日本の精神病入院者の数は一向に減らない。
1990年代、新法・精神保健福祉法に代わって以降、いまもう一度見返してみても、精神医療は後退したと思われてならない。私の改革への歩みも、敗退の一途であったのかもしれないと思う。精神医療の中での私自身の歩みを振り返りながら、「精神病」について考えてみたい。」
あなたも勉強会に来てみませんか。
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