きみ子告別式 ―手繰り寄せ、あがき、共に拓いた地域で

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12.25
越谷市恩間新田の農家に生まれ、障害のため半年で学校から来るなと言われ、同世代と切り離されて大人になり、25歳でわらじの会と出会い、街に出てから36年目に逝った新坂きみ子さんの告別式。

きみ子さんが生まれ育った地で、相続代わりに提供した土地に建てられた生活ホームで生涯を終え、昨日、今日、1階のくらしセンター・べしみで葬儀を行った。

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 自立に向かってはばたく家の同志であり、近くの団地で介助者を入れて暮らしながら、きみ子さんの介助コーディネートも担ってきた野島久美子さんが、お別れの言葉。「きみ子さんは屋内の話し合いは嫌いで、ひっきりなしに『しっこよ~ しっこよ~』と介助者とトイレに行きたがる。でも、カンパや販売で出かけてゆくのが大好きで一人で長い時間もやっている。若い男性がいると大喜びする半面、女性介助者にはわがままでいじわるな面もあったきみ子さん。

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クリスマスの直前に死んじゃうなんて、やっぱりいじわるだよ、きみ子さん。」と、泣きながら呼びかける。


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 その後、やはり自立に向かってはばたく家準備会の同志の一人で、生活ホームやべしみを運営する社会福祉法人理事長の吉原満くんの挨拶。きみ子さん、キャーキャー声を上げるところだな。


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車イスの参会者が多いため、お棺を低くして供花。


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きみ子さんの顎の下には、当時の活躍を偲ばせる「カンパ箱」のミニチュアが。

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 通夜に劣らず参会者が多い告別式だった。かってきみ子さんらの介助に関わった県立大卒業生の中尾文佳さんが、久しぶりに再会した聴覚障害の荻野好友さんと手話でおしゃべり。下の写真は、中尾さんたちの卒業式で。

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中尾さんはいま障害者施設のクッキーの商品価値を高め、市場で勝負するお手伝いのプロとして、全国を飛び回っているという。「それも、きみ子さんやわらじの会で、なにもないところから創り出してゆくことを学ばせてもらったから。」と語る。


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 そして焼き場へ行き、お骨になるまでの間、遺族や昔のケースワーカー夫妻やさまざまな時代にきみ子さんと過ごした日々を確認しあう。
 さらに、お骨になってべしみへ戻って来たきみ子さんを迎えて、みんながそれぞれの記憶を語り合う。


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遺族を代表して喪主となった甥っ子さんからもご挨拶。


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 ああ、長い一日が暮れてゆく。夕星(ゆふづつ)が恩間新田をみつめている。


 きみ子さんが家で父ちゃんの介護を受け、時々首を絞められていたころ、同じ越谷の農家の奥に座敷牢があり唸り声をあげていたという話を聞いた。
 高度成長の末期、田圃が埋められ住宅団地ができ、マイホーム幻想の中でうつりすんできたひとびと個々人がバラバラな孤独、不安を肥大化させてゆく状況と、こうした「つぐみ文化」の末期状況が同時進行していた。


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 きみ子さんはお向かいの家の故・光子・幸子姉妹をはじめ出会った人々や家族とともに、身辺の牢獄化とせめぎあい、行くよ・行くよパワーを全開させ、出会うものすべてを手繰り寄せ、生き抜くためにあがかざるをえなかったからこそ、結果として自分や社会の輪郭が見えなくなりかけていた新住民や若者がまきこまれ、自分や社会を再発見するきっかけにもなった。


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 きみ子さんもかっての家族の暮らしを失い、その前に失ってここへ来た私たちは、彼女とともに他者同士がすれちがい、折り合い、ぶつかりあって生きる地域を、束の間手に入れたのだと思うし、その束の間がとても大事だと思っている。

下は、生きていたきみ子さん、最後の写真撮影の日。
12.7
明日の「共に働く街を創るつどい2013」で発表する「自治体提言」の案を作っていたら、表がにぎやか。生活ホームもんてんの主・きみ子さんと20数年来のパートナーであるHさん、そして県立大生のKさん。

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 私のいる「黄色い部屋」は、30年前、きみ子さんらわらじの会の重度在宅障害者が家の奥から出てきた頃の活動拠点だった。まだ福祉制度がないころのこと。小春日和の今日、きみ子さんの買い物帰り。通りがかりにHさんは、娘より若いKさんに、共に生きる地域を拓いてきた歴史を伝えたいと、立ち寄ったようだ。きみ子さんは、いまはしゃべることも、顔面筋を動かすこともできなくなったが、生来ミーハーだから、うれしがっているにちがいない。
 黄色い部屋の主にして、きみ子さんのけんか友だちのわが連れ合い・71歳の誕生日を迎えたばかりの水谷を加えての記念写真。
 こんな風に民衆の歴史は伝承されてゆく。

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