養護・進路から現在につながる縁―宇都木章さん(すいごごカフェ)

 
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世一緒で毎週水曜に開いている「すいごごカフェ」、9月13日のゲストトークは宇都木章さん。地元の肢体不自由養護学校(特別支援学校)高等部の教員として長年にわたり障害のある生徒の進路指導を務めた後、卒業した重度重複障害の人たちの通所施設の長として働いたのち、現在は障害者生活支援センターや世一緒に関っている。以下、宇都木さんのお話。
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宇都木です。いま、ここ世一緒で火、金にサポーターとして来ている。私はずっと前、「職場参加を考える会」といった頃に運営委員として関わり、NPOを取った後も理事として関わったりしたことがある。
 そもそもは高校の保健体育の教員でずっとやってきた。その頃は養護学校という所があること自体知らなかった。友達に教わってそういう学校があることを知った。その後県のほうで養護学校の研修があるというので応募し、越谷養護学校の小学部、中学部、高等部を1ヶ月の間に回って研修した。私のいた高校は荒れていて、生徒とよく取っ組み合いしていた。1クラス40人いたが、どんどんやめていき、学級が減り、体育の教員が余ってしまうことになり、私が出ますよと言い、越谷養護学校に異動になった。
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 初めての担任が、後にわらじの会で活躍し、数年前亡くなった吉田昌弘たちだった。当時の生徒はハングリー精神が強かった。何を注文しても歯向かってきて、面白かった。一緒に組んでいた教員が進路担当だったが、高齢で辞めることになり、進路担当になった。進路担当は校内では一匹狼になってしまうので、県レベルの進路指導部会に出ていた。そこでは知的障害養護学校と肢体不自由養護学校と一緒にやっていたが、相当食い違うところがあり、校長会に承認を取り、肢体不自由だけの小委員会を立ち上げた。そこで「進路の手引き」を作ろうとしたら、「手引きは県が作るものだ」とクレームがついて、「進路のしおり」とし、校長会にも文章を書いてもらって発行した。今日バックナンバーを持ってきたのでみなさん見てほしい。
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(「進路のしおり」第3号には吉田昌弘さんが、「今は結婚して子どもができ、親子三人で市営住宅に住んでいます。」と書いている。そして生活ホームオエヴィスに入居した当時を振り返って「養護学校では、自分のことは自分でと教えられてきたので、容易に『介助者』を頼みづらかった」ことや、「学校と家の往復で、地域との関りがほとんどなく」「介助者を見つける『コネ』がなかったこと」を書いている。そして、「これからも、障害のある仲間が地域で生きていけるように、また一人でも多く地域で暮らしていけるように、微力ながら頑張っていきたい」としめくくっている。

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また「進路のしおり」第4号では、ケアシステムわら細工、虹の会、ふくしネット213などが紹介されている。)

 進路指導部会のつながりを通して、仙台のありのまま舎、静岡障害者自立生活センター、箕面市障害者事業団にも見学に出かけた。静岡では向こうが吉田昌弘を知っていて驚いた。その頃、施設実習ではなく、「地域実習」というのに取り組んだ。生徒たち自身が住んでいる地域の実態を知ろうという実習。市役所から職員を呼んだりもした。その場に保護者が来てもいいが、要望の場ではないからとくぎを刺して。
 初めは中学の普通学級を卒えて高等部に来た生徒のかなりが就労希望で、実際に就労できた。スーパーのバックヤードや特例子会社など。その後だんだん就労をめざす生徒が減った。けっきょく13年間進路指導をやった。ふつうは2,3年だ。越谷養護学校に18年間いたが、これもふつうは6、7年で異動になるところ。定年退職後、親たちが立ち上げた「あすなろ」という重度重複の障害者の通所の場の施設長を9年やった。それを終えた時、吉田昌弘から「介助者をやってくれ」という話があり、彼が所長を務める生活支援センターえんに関るようになった。

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 ふりかえってみると、障害者達とつきあってきたから、今も働けているのかなと思う。高校で体育の教員をやっているだけだったら、退職後も働くことができたかわからない。
 余談だが、1964年の東京オリンピックでは役員をやった。翌年が埼玉国体で、ずっと上尾市役所に勤務した。私の子どもも体育の教員でオリンピック組織委員会に関っている。以上、宇都木さんのお話。
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宇都木さんが口にした「障害者達とつきあってきたから、今も働けているのかな」という言葉の向こうに去来しただろうさまざまなシーンを想う。下の写真は、2013年2月、春日部・石川市長(右端)に対し、障害者の職場参加をすすめる会として「共に働く街をめざす提言」を行ったときの情景。手前の一番奥が筆者、その次が吉田昌弘さん、その次が宇都木さん。

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