台風一過の山で-故五十畑サク子さんと越谷市職・70年代末の記憶
台風一過で猛暑が戻ってきた9月18日、せんげん台西のバザーモノ集めを一回りして、家へ戻るために安ノ堀の端を歩いていたら、上流のわずかな空間に青い山の影が見えた。あれはどこだろう、方角からすると赤城かなあなどと考えながら歩いていたら、急に山々を眺めたくなった。昼食を終えたのはもう二時過ぎになっていたが、連れ合いと二人、とにかく低い山へ行こうと東武電車に乗った。
けっきょくすぐ行ける低い山ということで、太田の金山に行った。それも行きはタクシーで上の方まで送ってもらって。冒頭の写真は歩き始めた時点だが、もう影が長くなり始めている。上の写真は、大きく裾野を伸ばす赤城山。
なぜ金山と思ったかといえば、もう30数年前、登ったことがあったから。あの時は下からずっと歩いて登り降りた。五十畑サク子さんというわらじの会のごくごく初期に参加していた障害者を見舞いに行った時だった。彼女は越谷市で、両親、姉と暮らしていたが、父が逝った後、残った家族で故郷の太田に家を建てて戻った。その時に、彼女が月刊わらじ46号(1982年1月)に寄せた文章。残念ながら、この文章が絶筆となった。初期の4年間、月刊わらじの常連執筆者だった。「そとはかぜが ふいて、います、」が、いまもリフレインしているようだ。
《わらじの。かんそうぶん。》
なまえ いそはた さくこ
こんにちは。 長い間ごぶさたして、おりました。こしがやにいるときに。わらじのみなさんにいつも、しんせつに。してくれて ほんとうに、ありがとうございます いつもかんしゃしてます!
おおたのまちはーかなやま。どんりうさま わたしが。しょうがっこうの二年のとき かなやま。えんそくに、いぎました。
みんなで。かなやまえ、のぼって おひるのときに べんとう。たべて きねん、しゃしんとりました。
1月18日(火) いつも わらじのしんぶんどうも ありがとう、ございました。
わらじのみなさんに よろしくね。お体を大切にね かぜをひきません ように 気をつけて 下さいね
いつか。きっと あえると、おもいます、
へたなじで、ごめんね、
1月23日(土)
そとはかぜが ふいて、います、
おわり
上は、わらじの会に参加していた当時の写真。1978年7月。右から4番目が彼女。会場は、現在の中央市民会館の所にあった福祉会館。このときの「かんそう文」は月刊わらじ4号に載っている。
筆者がもっとも貴重な記録だと評価している「かんそう文」は、月刊わらじ10号に掲載された「ししょくの人たちと友だちになったころ」。《わらじのかんそうぶん》と題してはいるが、ここには、わらじの会発足より2年余り前の越谷市職員組合の青婦部の人たちとのつきあいが書かれている。ここに登場する固有名詞は、後にわらじの会代表になる障害者・野沢さんを除けば当時はほぼ20代だったはずの市職員たち及びその子ども。
なお、当時の市職の運動や20年近く後に市職の協力を得て市立病院で取り組んだ職場実習については、以下を参照。
https://room-yellow.seesaa.net/article/201112article_6.html
https://room-yellow.seesaa.net/article/201211article_8.html
《わらじのかんそうぶん》
五十畑サク子
昭和50年12月14日 かみ福岡へ映画に見に せきねさん正木さん私の家へ むかえに、くるまで。きて くれました.
野沢さんがくるまに、ようので、正木さんがくすりやで、くすりを かいました。そして、よわないようにと、正木さんが野沢さんと私に くすりをくれました。
あの時正木さん本当に ありがとう、ございました。
かみ福岡へついた時は、えいが。はじまって いました。
(きんの えいが)でした。
私はいいえいがで。なみだが 出ました。
しょくじを、しました。すしやさんで、すしを食べながら話をしました。
昭和51年4月3日(土)
私がひとりで。でんしゃに のりました。
(だけど でんしゃに のれたことは私は本当にうれしかったです.
ちょっとしんぱいでふあんでした。)
正木さんが私のくるのきたこしがやのえきでまって いてくれました.
あの時は ありがとうございました。
くないしょうのごりょうばで。かも、しらさき 見たり
お花見のばしょまで、あるきました。
さくらがきれいにさいて、そので花見やろうかって ゆったん、だけど
天気がわるくて、正木さんが 野沢さんの家で みんなと花見を、
やりました!
たまにゅさんとよこやまさんダンスやったことがいんしょうてきでした
みんなで歌をうたったことが 楽しかったです.
小さい子供がならんで。たいやきくんの歌をいたった。
民江さんもどんぐりころころの歌をうたいました.
歌は上手でした!
さいごにさんさん手びょうしやって。おわりました楽しかった
(野沢さんみなさんがとつぜん、うかがって。しつれいしました。)
ちなみに、昭和50年12月14日の記述で、五十畑サク子さんが「きんのえいが」と書いているのは、先日亡くなった河野秀忠さんが代表を務めた障害者問題資料センターりぼん社が1975年に制作したビデオ、「何色の世界:ある在日朝鮮人障害者の証言」で、主演が金満里さん(その後、劇団態変主宰)。後年、NPO法人上福岡障害者支援センター21を生み出した「とんぼの会」のイベントに市職のメンバーと一緒に出かけたときのこと。
昭和51年5月14日(金)
正木さんと私で図書館へ。いぎました。
図書館にはいろいろな本がありました!
そして私の読む本をさがして、くれました。
正木さんの仕事がいそがしいのに 図書館まで
あんない して、くれて、あの時は本当にありがとうございました。
昭和52年12月25日(土)
みなさんと、もちつき大会に いぎました。
正木さんが 私の家へに くるまでむかえにきて くれました。
場所は大沢公民館で
和室でみんなと、なっともち、あんこもち、食べました。
話をしたり、そこで うたも、うたった人も。いました 楽しかったです
今井さんがあんこもち。もっていってと、私にわたしました。
あの時は本当に ありがとう ございました。
いつもむかえにきてくれて。かえりもおくてきて、くれて
みなさん本当に ありがとう ございます.
わらじの会に はいって、山下さん田口さん水谷さんなんかとちりあいました.
いつもお世話になっております.
ありがとう、ございました
1月27日(土)
おわり
太田金山の物見台から眺める榛名山の峰々、その左に浅間山。すでに陽は十分に落ちかけ、厚い大気をくぐりぬけて光の矢が降ってくる。踵を巡らして、ゆるやかな尾根を登ると、私たちの影がどんどん長くなる。降り始めるころには、闇が迫っていた。
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