娘と共に街で――教育・福祉問い続け生きてきた小野さんのルーツ

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   娘も一緒にこの街で   

1月31日すいごごカフェ

小野達夫さん(所沢・教育と福祉を問い直す会,自立支援ホームとことこ)

――今も毎日発作のある知的障害の娘さんを、小・中とも近所の学校で共に学ばせ、専門学校へも。制度がさらに人を分ける時代にどう共に生きるのか、自らに問う。


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 (  花形企業マンがなぜ?   以下、筆者の秘書的介助者である奈っちゃんのメモにまとめられた小野さんの語り。これまで筆者が不思議に思ってきたのは、市場調査というある意味では時代の花形的な職業でずっと働き続けながら、わが子を含めてどんな障害があっても地域で共に生きることにこだわり活動し続けてこられたこと。長いおつきあいになるが、小野さん自身の暮らしと仕事をじかにお聞きしたのはこれが初めて。定年まで勤め続けた企業が、勤め始めた頃は職場状況も劣悪で、労働組合の闘いをロックアウトで排除し、小野さんら組合は地区労の支えを受けて闘い続け、やっと経営のありかたを変えることができ、現在に至るのだという。そんな自分の働き方に関わる経験が、家族や周りの人々との地域での暮らし方にも、つながっているように感じた。>

 これから一層頑張らないとな。という気持ちでいる。
娘は今38歳。てんかんの発作と知的障害がある。3歳の時にてんかん発作があり、そこから毎日欠かさずに発作の表をつけている。大発作(全身硬直するようなもの、どこに転がるかわからない、2分前後、3分超えるときは坐薬をいれる)、中発作(1分~2分程度、でも大ほどではない布団から出ない程度)、小発作(手とか足が発作を起こす程度、30秒くらい)、それより小さいもの(目をぱちぱちする等)は発作とはしていない。

〇娘と発作について
通所先まで夫婦交互で送り迎えをしている。子どもが中学生の時はまだ勤めていた。その頃は母親中心でサポートを行っていたので、現在自分とはサポートに少し差があったりする。けれど、その差も大事だと思っている。例えば、最初は停留所まで迎えに行って遠くから見守るのも否定された。発作はいつ起こるか分からないからという理由で。それも分かるが、一人で歩く、ということがなくなってしまう。母親は今も、停留所まできっちり迎えに行って車で帰ってきている。そういう差もある。家の中でも同じことで、階段なんかも途中で発作になると落ちたりと危険。道の途中で大発作になったりすると危険。
今の作業所に行って8年、この3~4年は道で大発作とかもない。発作がない時は普通にすたすたと歩いている。
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娘の千春が3歳の春に癲癇の発作と診断される。最初は2個上のお兄ちゃんと同じ近くの幼稚園に通っていた。その頃自分自身はまだ認識がなかった。発表会に行くと、なにか動きに違和感があって「なんか遅いな。」と思ったくらい。「幼稚園の先生が新任だからかな?」と思っていた。母親はもっと敏感で自分よりも先にいろんなところへ動いていた。娘中心の生活。当然、生活のため仕事をしていた。妻は専業主婦、千春が3~4年生の頃はクリーニング屋で働いたが、自由にはできず子どもが小学校に通っている間だけ少しやっていたくらい。

〇就学に関して、問い直す会との出会い
幼稚園の連絡ノートを担任の先生が書いてくれていた。いまだにとってある。3年間通って、それなりの幼稚園生活を過ごした。幼稚園の方から、市なり教育委員会に連絡がいき、5歳の秋くらい(小学校に上がる前)に「来てください」と連絡があり、何回か行った。私はもう決めたらそれでいい、と思っていたが、妻はとても心配していた。昭和54年(1979年)の10月に市の広報で、教育と福祉を問い直す会の就学についての講演会の呼びかけを見た。一緒に普通学級に行きましょうという趣旨で講演会をするというので、妻と行ってみた。それが初めて。
そこではカ要倉大三さん(町田市の小学校の校長先生)が「養護学校が義務化になりみんなが(在宅だった子どもも)全員学校へ行くということになるんだと喜んだが、実際は結果として分けられた。」という話をされた。当時の問い直す会は、いわゆる支援者・お母さん・学校の先生が主になっていた。そういう方々と活動を続けてきて今日に至る。


〇問い直す会の歴史
問い直す会は所沢で昭和53年に発足している。発起人の方々の中では施設に入っていた方が「地域で暮らす」ことを支援した方々がいた。村田実さんという方で、東京・東久留米の久留米園という施設に入っていた方を支援し、当時の医学や介護のありかたを批判していた。当時は入浴介助が同性でなかったり、ハンディを逆なでするような言葉で言われたりというのがあった。うちの娘はちょうど問い直す会ができたころに生まれている。

〇わらじの会、職場参加との出会い
要倉先生はその後退職をして川崎で障害を持った人を対象に活動をされていたときいた。わらじの会やすすめる会との出会いは問い直す会への参加を通してだった。昔、上福岡に小学校2~3年頃の娘を連れて行ったことがある。そこではじめてわらじの方と出会った。今まで障害のある方と接することがなかったので、一緒に食事をとったり集団で動いていることに驚いた。職場参加をすすめる会については、すすめる会として活動を始めたころから集会等に参加させてもらった。そこで私自身が何かできたかって言うと何もない気もするが、関わりは続けてきた。

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〇自身の生い立ち
1948年昭和23年1月に生まれる。7人兄弟5男2女の末っ子。生まれたのは東京目黒だった。西小山の駅から歩いて10分だった。木造の家の台所と6畳と4畳の4畳で生まれた。末っ子だから、きょうだいが「産婆がきてね・・・」と教えてくれた。一つ上の兄は戦争中で教会で生まれた。

父は19世紀明治の生まれで若い頃は朝鮮で働いていたらしい。らしい、というのもあまり語らない。残業も休日出勤もなかっただろうとおもう。商業の専門を出て19歳で日本通運に勤めて朝鮮へ渡った。28歳で身体を壊して帰ってきたときいた。

私は海外に行ったことがない。けれど日本の中は仕事でけっこう歩いている。父は60歳で退職して脳卒中。7人兄弟で一番上の兄と自分は大学へ行った。3番の兄は親戚に奉公に行った。4番目の姉もほかの所へ。同じ兄弟でも時代が違うんだなと感じる。

1954年に目黒区立向原小学校に入っている。生まれたところは借地。お寺さんの所有地だった。小さい頃に母と地代をおさめに行った記憶もある。品川も近かった。小学校は校舎がたりないから朝からはじまるのと昼からはじまるのがあった。覚えているのが給食。脱脂粉乳が焦げたにおいがして、アルミの食器に入っていたこと。ユニセフが子どもの支援に入ったことに恩を感じている。日本が国連に加入した時、小学校の朝礼で台の上から校長に「日本が国連に加入した」という話を聞いた記憶がある。その頃、校舎から東京タワーを作っているのが見えた。

1960年、中学校に入学。面倒見のいい元気な先生が多かった。家庭の本当の意味の事情を考えてくれるような先生だった。私より15歳上だった。先生がハイキング同好会というのを立ち上げ、いまも付き合いがある。クラブ活動も盛んで、社会部に入った。東京のこどもたちというので円グラフでどこで遊ぶ、誰と遊ぶ、なにで遊ぶなんていうのを書いてみたり、ゴミ問題を考えたりした。品川からゴミ船に乗せて運んでいた。その船に乗せてもらって夢の島まで行った。

1963年に高校に入った。もとは女子高だったから女子が強かった。A~Iクラスまであったが4クラスくらいは女子だけのクラスもあった。高校では新聞部。ちょうど東京オリンピックの頃。目黒は道路を広くするっていうので立ち退きがかなりあって、中学の同級生はかなり引っ越していった。

その後大学に入って、またクラブ活動に参加した。文学部社会学専攻ではあったが、3年にもなるとほぼ授業が無くて市場調査のアルバイトもしていた。
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71年に会社(社会調査研究所)に入った。市場調査をする会社(上の画像は会社のHPより沿革の一部)。アルバイトをしていたところにそのまま就職した。当時の市場調査関係の大きな出来事として記憶しているのは、1973年、突然スーパーの棚から洗剤が全部なくなったこと。当時の市場調査は事業所から紙で送ってもらった売り上げ等の数字をパソコンでいちいち打ち込んでいた。商品にバーコードがつくようになってデータがとれるようになり、大きく変わった。
途中、会社で労働組合を作った。ストライキが3ヵ月くらいだった。ロックアウトされ、水をかけられたりもした。その間、地区労の事務所を使わせてもらった。経営陣が設備投資に失敗して負債が増えたり、人事が偏っていて社員への目配りが足りていない、中間管理職を使って押さえつけていたという、当時はいろいろあった。

最終的には組合が求めていることが認められて、ずっと続いて今も組合がある。大変だったけれど、自分たちが求めていることが認められたってことに意味があった。2008年まで勤め続けて退職した。

結婚したのは組合で色々やっている時。妻は総務だった。その建物の管理的なところにいた。大阪で所帯を持って東京で転勤で戻ってきて現場に入った。その時に所沢に住み始めた。

会社はひばりが丘だったが、家賃を考えて所沢へ移った。子どもが生れて歩き始めるころに同じ駅で転居。娘が2歳の頃は兄とともにハイキングも連れて行っていたが、3歳で発病した。



いつものように、ここで克己さんの手話講座タイム
『橋本家の二階で、午前11時にパンを食べてコーヒーを飲みました』



〇質疑応答

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黒田さん:オイルショックはスーパーの店長の一言でああなったんですよね。

小野さん:私の仕事は起きたことしかわからない。一斉に消えた、というのは事実。その後どう流通がカバーしたかといえば、それなりの力はメーカーも流通も持っていた。あの時本当に洗剤がなくてお洗濯ができなくなったって人はどれくらいいたのだろう。社会的に全く洗濯ができなくなったという人はいるのかな?

日吉・山﨑:買い占めた人も余らせて…という悪循環だったらしい。トイレットペーパーも洗剤も、ないと困るからある時に買いためておこうという気持ちでそうなったと思う

小野さん:流通というのは難しいですね。あの時代は雑貨屋、薬屋というのがあって、今ほどスーパーが独占ではなかった。申し訳ないけれど全体的なことは分からない。

山﨑さん:千春さんの発作の記録を毎日ずっとつけていらっしゃる、と。生活介護事業所に通所されている間は?

小野さん:連絡帳で書いてもらっている。大きな発作がありました、お昼は食べました、という程度のもの。

山﨑さん:細かいところはやっぱりできないということですか?

小野さん:発作の情報をお互いにどう使っているか。母親がピリピリしていることがあって、そうすると事業所の人も細かく書いてくれたりする。
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水谷さん:梅村涼さんもてんかんを起こす。カナダで帰りの飛行機の前にてんかんを起こしていて、本人に坐薬か注射どっちがいいか本人に聞いた。彼女は泣いて「どうして自分はこうなんだろう?」って。千春さんはどうなんだろう。

小野さん:悲しい、とかそういうのはない。何にも思っていないんじゃないかな。本人はどこに倒れるとかもそういうのがない。発作が強いということなのか。ちっちゃい発作はあっても大きいのは2~3日ないこともある。好きで絵本を読んだり絵をかいたりするときは発作にならなかったりする。発作がある、というだけであとは普通にすごしている。

樋上さん:障害児については、母親の関わりほうがなにかとメインになることが多いと思う。ぼくの場合もそう。障害児の父親的というか、この道に顔を出すという人は少ないと思う。父親の横の繋がりというか・・・実際にはあるのですか?

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小野さん:私自身、妻とはケアの相棒と思っている。それと、父親同士っていうのはあります。私の場合は団体を通して。問い直す会を通して障害当事者の父親同士、一言で言うと支え合う関係。母親同士もそうだけれど、父親も父親同士支え合う関係。それぞれのやり方があるとは思う。体験で「あの時こうだった」「あの時どうだった」というかんじ。おんなじことをする中で何かがあると思う。家族連れでどこかに行くとか、そこでお酒を一杯飲むとか。それぞれの考えがあるからどうするとか、そういうのは一緒になりっこない。共通の体験をする。

日吉さん:今の話をきいていて、世一緒ってピアサポートを大切にしていて「同じことをする中で言葉以外の共通体験をして支え合う」というのがお父さんの世界と似ているなあ、と。連帯感をもてたりとか、それってすごく大事なことだなあと思った。

内野さん:娘は昭和55年に生まれて小中と普通学校、その後専門学校に5年、高校三年のところで辞めようと思ったけれどバブルがはじけて月謝が払えなくなる家が多くて、払える家ならと教頭から連絡が来たりして結局5年続けた。最後の最後、子どもは「養護学校に行けばよかった」なんて言ったりもした。今は生活介護事業所に行っているそうだけれど、娘さんは学校に行っていた時は悩まなかったですか?

小野さん:むすめはノーテンキなのか悩みがなかった。

水谷さん:お父さんが感じてないだけかもよ。

小野さん:行きに車の中で表情を見て「まともに考えているのかな?」と思うことがある。「私がこう思う」「こうしたい」って聞いたことない。「あれたべたい」とかは言うけれどね、悩みっぽいのはないなあ。妻は覚えさせようとずっとしていて今はもう諦めたようだけれど。「あんたはいいわよね、全然気にしてないから」なんて言われたり。

内野さん:父親はPTA行かないからいいのよね。ほかのお母さんたちからいろんなこと言われるんだから。

小野さん:「この学校になんで来てるんだ」なんて意見は受け付けない!

石田さん:うちは小野さんのお宅が羨ましい。うちは旦那が私を嫌いになっているし、離婚に至った。息子のことは母親としたらなんかおかしい、と思っていた。気づかないまま小学校4年生までいってしまって、息子がパンクしてしまった。先生とも行き違ったり…。旦那もだんだんお金も払わなくなったり、「自分は努力で何とかしてきた、息子、妻は努力が足りない」なんてかんじだった。とにかく夫婦仲がいいってのが一番ですね

日吉さん:ありがとうございました。



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