うんとこしょ―梅見 生活クラブ・内山さんと画伯と暮らしの歴史を歩く
うんとこしょ―共に活きる街の介護人養成講座、年度末を飾るお出かけ企画「梅林公園に行こう」。越谷市の梅林公園は東武スカイツリー線の北越谷駅と大袋駅の中間地点にある。そこで、希望をもとに、集合地点を二つの駅に分けた。また、これまでの積み重ねを踏まえて、生活クラブ生協越谷ブロックから参加しているメンバーに、障害者宅や近くまで迎えに行ってもらったり、集合場所近くの公共施設から車いすを借り出しに行ってもらったりした。
生活クラブ地域協議会メンバーの内山さんは、盲ろう下肢まひの橋本克己画伯の介護人として、この日イベント終了後の買い物や自宅への送りも含めて7時間同行した。
北越谷と大袋は、その昔利根川の本流だったとされる元荒川が、大きく蛇行を繰り返していた土地で、現在もその蛇行の一部は残っている。梅林公園は隣接する宮内庁鴨場とともに、氾濫原だったところで砂地になっている。そこから自然堤防が立ち上がり、その一部は北西風に砂が飛ばされて堆積し河畔丘を形づくり、盛り上がっている。このような河畔丘は、大昔の浅間山の大噴火による火山灰が利根川によって運ばれ、北西風によってつくられるもので、それが見られるために元荒川はかって利根川だったと推定されている。
ところが、元荒川は、梅林公園のすぐ上流で、江戸時代に蛇行の一部をちょんぎられ(そこが」上の地図上の〆切橋)、元の蛇行した川筋や自然堤防、河畔丘が、小さな流れや池、田畑、寺社、住宅地などに変わっていった。しかし、その名残は今に至るまで長く引き継がれており、砂地を活かして梅や桃、栗などの果樹栽培が長くおこなわれてきたのもそのためだ。
ちなみに、わらじの会の初代代表だった故野沢啓祐は、梅林公園からほど近い大林で生まれ育ち、ここで生涯を閉じた。小学校への通学路だった梅林公園の辺りは、見渡す限りの桃林だったと言っていた。1950年代のこと。その後、だんだんに桃をやめて梅林に変わっていたのだろう。1970年代に大林にできた一戸建て住宅団地は「うめが丘団地」と名付けられ、隣接して大きな梅林がいまも残っている。
北越谷駅から元荒川の土手を歩き、30分足らずで梅林公園へ。土手の左下は川、右下は鴨場。鴨場といえば、かって昭和天皇が逝き、自粛ムードの中、そうしたこととはまったく無関係に、当時はかなり視えていた橋本画伯が夜、愛用のチェーン式車いすで鴨場の門の前を通りかかった所、警戒中の警察官に取り押さえられたという「事件」があった。愛車の前にはオートバイのライトを装備し、それを点灯するために後部にトラックのバッテリー2基を積んだ箱を付けていたので、ゲリラとまちがわれたらしい。
梅林公園で待つことしばし、大袋駅からのグループも集合し、生活クラブ越谷地域協議会の清水さんの司会で自己紹介をしあう。
駅前で障害者からケアシステムわら細工の介助者募集チラシをもらって、やってみようかなと思い、いまは生活ホームの食事づくりなどをやっているという人もいた。
今日は初めて越谷の山崎薫さん母娘の家まで行き、介護人は別にいたが、一緒にここまで歩いてきたと話す生活クラブ生協越谷地域協議会の大熊さん(上の写真)。
わらじの会40年の歴史の中で、介護制度が拡充されてきたのは、20世紀末ごろからで、それまでは介護以前にまずは人と人として、自分の尺度ではわかりようもない他者同士として出会うことから始めざるを得なかった。すれちがうこと、時にはぶつかりあうことは当然のこととしてあった。介護制度が拡充し、資格や経験があればスムーズに介護が成り立つという幻想が拡がっている。が、そんなことはないからこそ、「虐待防止」や「差別解消」が叫ばれ、「介護人材不足」も慢性化するのだ。
このうんtとこしょ―共に活きる街の介護人養成講座は、筆者らにとって、そんな原点を想い起させてくれた。
各自持参の弁当を食べた後、三々五々梅見に。橋本画伯は、介護人の内山さんに自分のカメラを渡し、ポーズをきめる。
克己絵日記には、常に画伯自身の姿が入っている。自分の目ではなく、第三の目に照らし出された画伯の物語が描かれている。それと同様に、画伯はカメラを第三の目として扱う。
園内をひと巡りして帰ってきた後は、生活クラブの人達と一緒でなければまずわらじの会ではやらない、ドレミの歌やキャンプだホイの歌に合わせたからだほぐし。なかなか新鮮。子どもがいないのがもったいなかったが。
梅林公園からの帰りは、また二手に分かれて駅に戻ったが、大袋駅からのグループの「小さな流れに沿った道で来た」とのことばに惹かれて、そちらに合流。この小道と流れは、暗渠の上になっていて、狭くてやっと通れる幅だったり、時には大きな道の歩道になったりしながら、ずっと続いている。「小さな流れ」は夏に降った雨をろ過して、一時的に水を流しているようだ。
帰ってから調べたところ、「根河原緑道」という名がついていて、その名から推測されるように、かって元荒川が締め切られる前の流路の跡のようだ。
上の地図で、ピンクの所が梅林公園、その下が鴨場。梅林公園のそばから点線で上にぐるりとこぶのように描いてあるのが元荒川の旧流路。緑の線が帰りに歩いた緑道コース。ぴったり旧流路に沿って左回りに続いている。故野沢代表が子どもの頃は、いちいち調べなくても、もっと歴然とした地形だったろう。
さて、今日全身性障害者介護人派遣事業の介護人として画伯に同行した内山さんは、イベントを終えた後、、量販店2軒をめぐる買い物にもつきあった。画伯は19歳まで一人で外へ出たことがなく、もちろん買い物もしたことがなかった。それまで母の手づくりの食事しか食べたことがなかった画伯にとって、自分で選んだものを自分で買って自分で食べるのは、大いなる解放と感じられた。それ以来今に至るまで、手料理は原則として食べず、スーパーやコンビニで買ったものを毎日食べている。
そして、15,6年前からは、まだ会えぬ将来の伴侶に向けたプレゼントの品々を買うことが、画伯の買い物のもう ひとつの目的になった。いわば神への供物のような品々を買っては、しばらくすると廃棄し、新たに同様の物を買っている。それらは時におもちゃであり、時に台所用品やアクセサリーなど、画伯の内的世界の展開に合わせて推移する。
買物が終わり、自宅へ送って行く。画伯の母ミツエさんは入院中。自分でカギを開け、中に入る。エビのように後ろ向きで動いたり、現在の体力を有効に使って移動するさまはまさにアート。鍵も中から自分で締める。かくて、うんとこしょー梅見の一日が終わる。ちなみに画伯の家は南荻島で、梅林公園にほど近く、父・故己代司さんが存命当時は、梅林公園の梅を持って帰れる市のイベントがあると参加して、梅干しを作っていたものだ。
わらじの会が発足した40年前は、今よりもずっと川や沼沢地や河畔砂丘の地形を見ることができたなあとふりかえる。当時すでに30代だった故野沢啓祐はじめ、梅林公園からほど近い大袋小学校へ1時間ときには2時間かけて遠い恩間新田から通い、間もなく就学免除にされた新坂光子・幸子姉妹やきみ子さんらが子どもだった時代の風景に思いをはせることができた。
先に「他者同士として出会うことから」と述べたが、それは個と個としての出会いにとどまらず、人々の暮らしや労働の歴史を織り込んだ地域の風景の中での出会いだ。そんなことを考えさせてくれた、今日の小さな旅。
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