強制不妊手術―埼玉県 黒塗りの情報公開文書からわかること

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上記はある新聞社が埼玉県に対して「強制不妊手術に関する一切の資料」の情報公開を請求して、現段階で開示されている膨大な資料のファイル。

 ほとんどすべてが黒塗りされており、これでは何もわからないからと、いただいたもの。同社だけでなく、複数の新聞社等が情報公開をかけ、同じ資料を得ているとみられる。なお、埼玉県は、いまのところ公式にはなんの動きも見えない。

 せっかくいただいた貴重な資料なので、チェックさせていただいた。黒塗りながらも、当時の状況をいくらかでも知ることができるので、ここに公開しておく。

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 上は優生手術の審査申請書。申請者は医師。旧優生保護法第4条(別表に掲げる主に遺伝的疾患と見られる疾患に罹っていることを確認した医師が、優生手術を行うことが公益上必要と認めるとき、県の優生保護審査会に審査を申請する9に基づくもの。この第4条ともうひとつ第12条(遺伝性のもの以外の精神病又は精神薄弱にかかっている者)について、医師が審査会の決定を経て行った手術が、いま「強制不妊手術」として問題になっているものだ。

 この申請書には審査会のメンバーと思われるものによるメモが記されている。「第4条 可  今後も妊娠の可能性あり、従って中絶の恐れも多い。」 中絶を繰り返すよりも断種してしまえという論理。野良猫の扱い。
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 そして、上が県の審査会から申請者である医師及び本人に送られた通知。「右の者については」と書かれていて、本人にも送られる通知としては、文字通り刑の宣告のような文面だ。

 ここには「優生手術を行うことを適當と認める」とそっけない文言が記されているのみ。

 決定通知書の末尾に「なお、この決定に不服があるときは、この通知を受けた日から2週間以内に、書面で、中央優生保護審査会に対して再審査を申請することができる。」とある。だが、ごくごくまれにしか、そんな例はなかったとみられる。

 精神科医の岡田靖雄さんは、「優生保護法における優生審査の実際にふれて」と題する日本医史学会総会の一般演題で次のような例を紹介している。

 「1955 年岩手県優生保護審査会からのものである.県立南光病院医師の申請による26 歳分裂病の男が対象者で,優生手術の決定があった.これに対し父は,軽快しており本人も優生手術には同意していないと,再審査を申請.県審査会は“今後の悪化は必至”と要手術と決定.父はさらに再審査を要請して,中央優生保護審査会にあげられたものである.この例では,調査の段階で姉の病歴要約までがかなりくわしくのべられている。」


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 膨大な資料のほとんどが墨で塗りつぶされているが、上のような「優生手術関係内容内訳(年度別)」が塗られずに開示されている。
 昨夏厚労省で示していた「優生保護法下における不妊手術件数 埼玉県」と題した表では、1953年(昭和28年)以前は、都道府県ごとの数値の記録がないとされていた。しかし、今回情報公開で得られた資料では、1963年度の強制不妊手術実施件数は54件であることがわかる。

 また県のこの表では、「審査件数」、「決定件数」、「保留件数」、「手術実施件数」、「手術年度内未実施件数」を区別してカウントしており、国の数値より実態を把握できる。

 今回開示された文書によれば、強制不妊手術実施件数は、1953年度(54件)、1954年度(31件)、1955年度(36件)、1956年度(46件)、1957年度(42件)、1958年度(34件)1959年度(45件)となっている。

 なお、埼玉県の公式見解は、3月10日の今になってもなんら示されていない。早急に県自らが実態把握と被害救済、そして生命を選別しない共生社会への具体的行動をスタートさせてほしい。

この記事へのコメント

砂漠の
2018年03月11日 00:40
アートで知的に問題がある男女二人が好きになって結婚して子供が生まれたけど子供を育てる事が出来ず他の人に育てて貰っていると言う話を聞いて何なんだろうと思った。当時は子供が出来ても育てられないと判断されたのかも?
筆者
2018年03月13日 16:43
20年前未成年の子供二人を残して亡くなった知的障害のシングルマザーの場合も、ひきこもって大人になった夫と離婚する前から、子どもたちは朝から祖父母の家に行ってそこから登校し、下校後も夕方まで祖父母の家にいて、夜自宅に寝に帰る、という毎日でした。そのころまでは、福祉施策が未整備のため、いまよりも多くの障害者が、手に職を持って働くことや結婚して家庭を持つことで自前で生活を立てようとしていたと思います。その結果、障害者を食い物にするドレイ工場もあったし、召使のように扱われた妻もいました。いっぽう、そのような可能性がない重度障害者は家の奥や大きな施設・病院に収容されることが彼らの幸せだとみなされました。こうした中、「不幸な子どもを産まない運動」が全国の自治体で展開され、強制不妊手術も進められたわけです。21世紀に入り、福祉的支援が拡充されたことにより問題は解決されたかといえば、新型出生前診断のように生まれる前から排除されたり、幼い時から特別な支援を受けるためには分けられた場に行かねばならないといったように、同世代同士が出会えない構造がかってより拡がっています。税金をいっぱい使ってなる立っているせっかくの支援策ですが、さまざまな人々が一緒に働き、出会い、一緒に暮らすために活かすには、立ち向かわねばならない多くの壁があります。

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