聴覚障害と一緒に55年―Ⅱ.共に働く職場とは (松山美幸)
ここから就職の話しになります。
1)70年代半ば―分け隔てなく働き・付き合った職場
高校の先生の奔走で、家から20分の中板橋にあったSEIKOと言う時計の側の下請け工場に就職しました。働いてみて、障害者がたくさんいました。
てんかんの人、背が低い人、知的障害、等です。障害者だらけなのでみんな馴染んでいて、いじめが横行していると言う風には感じませんでした。
特に私は知的障害の人と友達になり、よく会社が終わってからご飯を食べに行きました。
そして、中学卒業の人がほとんどでした。すごく活気があって、仕事もみんなと同じように任せてもらえて、後年経験するような分け隔てはありませんでした。
私に出来ることだけを任せてもらえました。結婚して退職するまでに8年在籍していました。
だけど、1人の変わった人がいて、その人には集中していじめられました。他の人ともトラブルを起こしていて、会社では有名なトラブルメーカーでした。その頃の友達と今でも付き合いがあり、トラブルメーカーさんの話しが出て来て、あの人も発達障害だったかもね。と話していました。
その頃は何がなんだかわからず、とにかく怖かったものです。
そこでの8年はとても充実した日々だったように感じました。仕事さえきちんとしていれば、みんながまともに相手をしてくれたのです。
差別が感じられなかった職場にいたことはとても大きかったです。その後の人生に自信が持てるようになりました。
意地悪をしていた人はいましたが、その人はほかの誰からも相手にされていませんでした。ただ時計修理の技術だけがすごかったようです。ですが気分にすごく波のある人で、気が乗らないと誰彼となく怒鳴りつけているので、一緒に仕事する人はいませんでした。
8年在籍していたうちに、上司が5年で異動してゆき、私が最古参になり、新しく来た上司に仕事の指導をしました。
他の人にも仕事の流れなどを説明したりして、私が説明したことで、検査課がうまく回ってゆくことがとても新鮮な感じがしました。大変充実していたように思います。
2)働いた自信が結婚・子育てを支えた
そこの職場で出会った4年下の今の主人と結婚して退職しました。
仕事を8年続けた自信というのはとても大きく、結婚して子供を育てられるかもと期待しました。
結婚して1年後に長女が生まれ、5年後に長男が生まれ、9年後に次女が生まれました。
出産の時に印象に残ったことが、長男を出産したときに看護師さんが「あなた耳が聞こえないのによく2人も子供なんか産んだわね。育てられるの?」と言われてすごく腹がたちました。
そのときは手話がわからない私に手話で話し掛けてくださったような優しい看護師さんもいれば、こんな暴言を吐く看護師もいるもんだ。とおもいました。
結婚したときに、家を出ようと思ったのですが、母から家を出るなと言われてそのまま住み続けたので、両親と同居していました。ですが母には「私は孫の面倒なんか一切見ないからね!」と宣言されました。
私もこんな気分の波がすごい人に子供を預けようと思わなかったので、はいそうですか。と応えました。
お陰で、3番目の子が保育園に入るまで15年間、美容院に行ったこともなければ歯医者にも行けませんでした。
子供を育てていたときに気をつけたことは、子供の話を聞こう。子供と話をたくさんしよう。と心がけたことです。
子供の友達のお母さんと積極的に仲良くするようにして、子供がいじめられないように気をつけました。それでも、いじめはゼロにはなりませんでしたが、理解してくれる人の方が多かったように思います。
3)子どもと共に手話を学ぶ
長女が高校生の時に「お母さんは何回も聞き直すから嫌だ!」と言われたことがショックで、手話を習いに行こうと決めました。
20歳の頃に手話を習おうと思ったのですが、母親にみっともないことは止めなさいと言われて断念しました。
その頃に比べると当時44歳だったのですが、テレビドラマなどで聴覚障害者が主人公の番組がたくさん出てきたりして少しは偏見の目がなくなりつつあるかなと言う頃でした。
つてをたどって、手話サークルの存在を知り、通うようになりました。
通うと決めたら当時小学生だった長男と次女も「僕も行く私も行く」とついてきました。これがよかったようで、すぐに家で手話と指文字の会話が始まって、ものすごく楽になったことをすごく覚えています。
しかし、学校の勉強はしないのか?できないのか?努力をしない子供たちが、あっという間に手話や指文字を覚えたことはびっくりしました。この調子で学校の勉強もして欲しかったですね。
手話通訳を依頼できるようになった頃からは、みんなの意見や考え方などを知り、積極的に発言できるようになり、自信がつきました。やっぱり情報保証ってすごく大事ですね。
子供たちもそれぞれ学校で「おまえの母ちゃん耳が聞こえないんだってな」とからかわれたようです。そこも、子供が3人いたので、日吉さんと同じように兄弟同士で共有できたから抱え込まずに済んだのでは?と思っています。
45歳の時に勉強してこなかった反省から、通信制の大学で文学の勉強をしようと思い、東洋大学の通信教育を受けました。
2年ほど勉強した後、母が認知症と診断されて何かと手が掛かるようになったので、泣く泣く諦めました。母が亡くなって時間が出来たらまた再挑戦したいと思っています。
4)障害者枠という差別
44歳の頃に子供の学費を稼ごうと思って仕事をしようと思いました。周りのお母さんがどんどんパートに出ているから「私も」と思いました。
いざ仕事を探してみると聴覚障害者に出来る仕事というのは限られていたり、家の近くに履歴書を送っても断られたりで、新聞のチラシの仕事はことごとく落ちました。
私に出来る仕事はないのかと思ったら、誰かがハローワークに行きなさいと言ってくれて、ハローワークで障害者枠の仕事を探したら、案外簡単に決まりました。
障害者枠と言うことに違和感を覚えましたが、仕事をするのにしょうがないかなと思いました。
入ってみたら差別差別差別の連続でびっくりしました。今まで生きてきて学生時代のような差別を感じました。
こんな中で仕事をしなければいけないのか。と暗澹たる気持ちになりましたが、仕方がないですね。
結婚前は製造業で検査の仕事をしていたので、同じ職種を希望しましたが、今は国内の製造業は地方か海外に行ってるので、事務しかないといわれて、じゃあ事務で。と生まれて初めて事務職につきました。
最初の会社はA生命保険で新宿にありました。
そこでは仕事は少ししかなくて、もっとくださいと言っても、今あなたの仕事を見つけてくるから。と言って3年半過ごしました。他の人は一生懸命仕事をしているのに、なぜ私だけ?と悶々としました。
試験を受けろと言われて受けました。合格しましたが、社員と同じように特別手当はありませんでした。
A生命は中堅の会社なので、だめなのかな?と思って、大きな会社なら仕事とをさせてくれるだろうと思いD生命に転職しました。ここでの差別が一番ひどかったです。
今週の月曜日にもD生命時代の聴覚障害の友達と会いましたが、退職して6年経っても、差別がすごかったよね。と話しています。
今までD生命時代の差別の話はたくさんしてきた(上の写真)ので、ここでは省きます。
ざっとあげると、やはり障害者は事務アシスタントという職種で、座ってるだけでした。
昇給なし仕事なし査定なしでした。
馬鹿にしてるのか?と思いましたが、どの上司に聞いても「即戦力ですよ」といいます。座ってるだけなのに、どこが即戦力なんだ?と思いました。
5)聴覚障害の仲間たちにも腹が立った
ここで10人の聴覚障害者と会ってみんなは「座っているだけでお給料がもらえるからいいじゃない!」と言う考え方で、ついて行けませんでした。
仕事したくないの?と聴いても、仕事できないから。と言います。じゃあ何のために会社に来ているの?と聴くと、生活のためといいます。
「松山さんもあまり騒がないで、座ってなさいよ」と言われて本当にびっくりするやら腹立たしいやらですごい体験をしたと今でも思います。
あまりにひどすぎるので、また転職を考え次は800人のシステムエンジニアのいる会社に転職しました。人事部で給料計算と社会保険事務と年末調整などを担当しました。
3年しかいませんでしたが、ここでの仕事が結婚前の会社と同じように仕事をさせてもらえたなと今でも思います。
6)まだまだ続く私の人生
次女の学費が終わった頃に、夫に仕事を辞めて介護だね。と言われて泣く泣く退職しました。
当初は近くでパートをするつもりでしたが、あれよあれよという間に父が弱っていき、外出にサポートが必要になり、パートをしている場合ではなくなりました。
その頃に母がぐちゃぐちゃにした両親が経営している会社をどうにかしないと、と思って、夫と弟が両親の会社で働いていたので、協議の結果、両親の会社をたたみ、夫と弟はそれぞれ名前をもらって活躍しています。
現在は私が二人の経理のサポートをしています。
父は一昨年夏に誤嚥性肺炎で入院して寝たきりになり、どうする?と訊くと家に帰って酒が飲みたいというので、それではーと在宅介護の体制を整えて1年1ヶ月家で介護しました。
最後の息を引き取るところまで看取れたことは本当によかったですし、いい経験をさせてもらいました。
母は発達障害と診断してくれた先生の助言で成年後見制度を利用し、現在私が後見人となっています。
今は老健とショートステイを交互に利用しながら、特養の入所を待っています。
要介護2ですが、精神障害手帳1級をいただいたので、特例として特養を申し込むことが出来ました。
まだまだ私の人生は続きますが、今後はどんなことが待っているか。楽しみです。
これで終わりです。
ご静聴ありがとうございました。
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