有(みち)と生きた日々から 2021.3.17 すいごごカフェ 原和久さん(NPO自立センターめだか事務局長)

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有(みち)のペースで通った学校生活

 長女の有(みち)が生まれたのは1975年5月10日。2、3ヶ月経っても、抱いているとクッという動きがつくので、すぐ東大病院に入院することに。そこで点頭てんかんだとわかった。治療といっても状態は改善せず、首が座らないし母乳も粉ミルクも飲むのが下手で苦労した。

 5歳の時には近所の幼稚園に入ることができたけど、有(みち)はあーうーくらいしか言葉も出ないし、ほとんど寝たきりで自分で移動できないので、6歳の就学相談の時には呼ばれた。普通学級で共に学ぶ方がいいと思っていたから、家から近くの小学校に入りたいと伝えたけど、なかなか許可が下りなくて。就学通知が来たのが3月30日か31日で、ギリギリ82年4月から小学校に入学できた。妻も私も教員で共働き家庭だったけど、有(みち)は預けられないので、両親が東京に移り住んでサポートに入ってくれた。出席できた日数は5年生の時は155日。6年生の時が141日。熱を出せば入院しなきゃだし、有のペースで通っていた。でも、林間学校や修学旅行は私も一緒に参加したのを覚えている。中学校は割とスムーズに入れて、卒業したのが91年。その後、一番近くの県立高校だった草加南高校に入りたくて91年から95年の間5回受験したんだけど不合格になった。これが学校の話。

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たくさんの経験をしてほしくて

 赤ちゃんの頃から東大病院に入退院を繰り返してたので、そこで出会った親子で「てんとうむしの会」を立ち上げて定期的に集まるようになった。そして、子供達にできるだけ普通の生活を、そして様々な経験をさせてあげたいということで、毎年1回旅行に行くことになり、親同士の交流も深まった。

 私自身もできるだけ旅行に連れていきたいという思いから、有(みち)が小学生の頃から7、8年は夏休みは毎年小笠原に旅行に行っていた。東京から船で23時間かけて、3週間くらい泊まって。毎年正月には家内の弟が住んでいる長野の上田に電車で行って、大きいそりに有(みち)を乗っけてスキー場に行ったり。そういったいろんな経験をさせたかな。

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多くの人に見守られながら歩んだ日々

 93年頃に妻が乳がんを発症して手術を受けた。96年の有の成人式の年に再発し、その年の4月19日に亡くなった。その前に私の母も亡くなっていたから、有(みち)を見てくれる人の体制が取れなくて、全身性障害者介護人派遣制度を10月から使えるように申請して手続きをした。私もその時は家内を亡くす直前に学校を休職して1年間休むつもりだったんだけど、かみさんも乳がんになってから、かみさんの叔母さんや、全身性でめだかに関わってくれたヘルパーさんや、他にもいろんな人が介護に入ってくれて、こういう形でこれから生活していこうかなって時に、有(みち)も亡くなった。母親が亡くなって半年後のことだった。点頭てんかんって頭の脳細胞が壊れてく病気で、時々呼吸を止める。今までも呼吸が止まることは何回もあった。途中で気が付けば、鼻のところを爪でピッとすれば痛いから呼吸し始める。有(みち)が亡くなったのは11月4日の早朝。有(みち)と私の2人だけの時で、明け方だったから。

 今までで一番苦労したのはやっぱり食事かな。熱出したら食べれなくなっちゃうから、鼻からチューブを入れて流動食を入れて。胃の中に入ってるか聴診器を当てて確認するのは医者に教わってできるようになったけど、慣れればどってことないかなって。そうしないと生きていけないから。飲み込みが下手だから野菜をペースト状にすりつぶすけど、ごはんはやわらかく食べて。納豆を刻んで混ぜてねばねばにして。今思うとよくやった。

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