障害者と出会い内なる差別問う 2021.4.14 すいごごカフェ 菊地一範さん(地域自立支援グループあん)

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人生を変えた、障害者差別で感じた“怒り”

 なぜ障害のある人達と付き合いだしたか。一番始めは1969年の夏。京都の円山公園でヒッチハイクをしていた時、知恵遅れの子供達の施設共同体を作るんだって言って、リヤカーを引いて、ギターで歌ってる人たちがいた。おもしろいなと思って2日くらい一緒にリヤカーを引いた。「ひゅうまん運動」という団体だった。中心になっていたのは、五十嵐康郎という人。五十嵐さんはそこをやめて、東京の滝乃川学園という知恵遅れの学園で児童指導員をしていた時に、遊びに来ないかと僕に連絡してくれて。それで70年の秋頃に実際行ったんだけど、驚いた。柔道場のような場所で、子供達がつけてしまった糞尿がそのままで畳がとにかく臭かった。子供達は畳の毛羽を取ったり、暇そうで。子供達を社会から隔てるこんな世界もあるのかなって感じだったけど、そこを手伝ってよと言われボランティアになった。

 子供達を散歩に連れて行った時、近所の子供が投げたお菓子を、散歩に行った子達が取り上げて食べ出しちゃったことがあった。保母さんが大慌てでだめよ!って言ったんだけど、近所の子の親が、お菓子の袋を汚そうにつまんで「やるよ」って投げた。すごいショックで悔しかった。障害者差別で怒りを感じた、原点。それがなかったら、私の人生変わってたかもしれない。

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初めての障害者運動、八木下さんとの出会い

 私はその頃白梅学園短大に通っていて、保育士になりたかった。でも当時保父というものはなかったから、短大を出ても資格が何もないわけだけど、早く子供と付き合いたいと思って、75年に浦和に来た。その頃に、普通学級に入りたい親子達の集まりで、八木下浩一さんと出会った。それから、八木さん(八木下浩一さん)が代表をしていた、川口で小規模な施設じゃなくて生きる場を作ろうという「川口に障害者の生きる場をつくる会(1974年結成)」に勉強に来ないかと誘われて、“生きる場をつくる会”に関わるようになった。

 生きる場をつくる会のうち2人は相当障害の重い人で、一刻も早く施設はどうかなという感じだったけど、「定員10名入れる場所を市街地に見つけて、重度者1名に対して介護者1名をつけて、管理職員をつけてほしい」といったことを要望していた。市はたびたび見解を翻したので、私達は市役所ロビーでの座り込みや泊まり込みもした。それで最終的に「しらゆりの家」という施設ができたんだけど、はっきり言えば、会の中でいろんな人間関係ができて、運動では負けちゃった。重度障害者でも普通の人と同じように生活できる場にするという目標は叶わなかった。私としては最後の方では引き気味だった。

 八木さんとは、生きる場をつくる会が敗北したその後も結構付き合いがあって、ときどき介助したりしていた。その頃は八木さんは介助なくても動けてたけどね。学生運動ペースで、市役所の周りにポスターを貼りまくったり、楽しかった。

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心に刺さった沖田さんの問いかけ

 現在は、障害者の方と一緒に掃除の仕事を20何年間続けているのと、鴻巣で月に6~7回、NPO法人あんの理事長の沖田博さんの泊まり介助をやっている。沖田さんとは、とある上映会で出会った。そこで、「障害児が生まれてきて悪いのか!なんで悪いんだ!」って沖田さんが叫んで会場シーンとなっちゃって。なんで病気とか後天的な障害は生まれてこないようにして、生まれつきの場合は肯定できるのか。それは今現在も誰も答えてないと思う。そういう意味で沖田さんの問いかけは重要で、おもしろいことを言うやつだなって、それから鴻巣にたまに行くようになって付き合いが始まった。

ずっと障害のある人と付き合ってきたけど…

 私は3人兄妹なんだけど、妹の1人が十数年前にうつ病になって。さらにもう1人の妹が発症して入退院を繰り返すようになって。私は障害のある人と付き合ってきて、それなりにまっとうにやってきたつもりだったんだけど、自分でも差別意識があるんだなと妹との関わりの中で感じている。今、自分の中ですごい葛藤があって、逃げたいって気持ちがぐわっと出てくるから。障害のある人を否定することは自分自身を否定することだとだし、その逆もまた同じだと思っている。障害のある人の付き合いのおかげさまで生きて来れたと思ってるし…だから今妹たちから逃げたいというのは、本当に嫌んなってるというか。

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