わが悠々自適な生活 2021.8.25 すいごごカフェ 岡村峰人さん(有機農業者)

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繰り返しちゃいけない戦争

 今82歳。小さい頃は山口県岩国市にいた。だから小学1年の時に原爆が落ちてピカッと光るのも、きのこ雲もずっと見てて鮮明に覚えている。14万の人が一瞬にして亡くなっちゃった。岩国市と広島市は横浜と東京くらい離れているから幸いにして私自身は被爆していないけど。その後日本は戦争を70何年やっていないけど、どんなことがあっても戦争はしちゃいけないなというのを言いたい。昭和23年くらいまで親父は中国から帰ってきてなくて、おふくろと一緒に本当にひもじい思いをした。コーリャンを弟と盗んだり、イナゴや蛇を捕まえて食べていた。親父が帰ってきてからはなんとか飯を食えるようになったけど。でも、昭和30年くらいから大変希望が持てる世の中になった。一日にコッペパン2個しか食べられなくても、明日はよくなるというのがあって。頑張ったら頑張っただけのことがあったからね昔は。今若い人達はどうもしぼみしぼみで大変だろうなと思う。


仕事もプライベートも満喫した日々

 大学卒業後、ソニーに就職した。社員教育とかけっこうあちこちで使ってもらってたんだけど、電話のかけ方とか、会社経営の仕方とかを学んでもらうためのスライドとテープレコーダーを作って、その販売促進をしていた。ソニーに勤めて5、6年経った頃には、今度は新宿伊勢丹に友達がやってた瀬戸物屋(茶碗屋)を手伝ってと言われ、働くことに。そこで面白くなって10年かけて年商50億まで伸ばしたんだけど、やりすぎて倒産させた。企業というのは大きくなるときりがなく大きくしていかざるを得ず、最後には利益がなくなってもまだ突き進んでいくと破産すると。25歳~38歳くらいで、世の中の倍々ゲームは大変危険だということがわかった。それからはタイルの仕事を始めて。ビルの角に貼る曲がったタイルだけ専門で作って、メーカーに頼むと1か月かかるところをうちでは3、4日で仕上げた。そういう商売をしたら大変儲かって、長者番付にも1回だけだけど載ったことがある。バブルの頃には月収が1千万くらい。マンションは10こくらい、会社は5つ持ってた。釣りが好きで世界中を回って。でも、バブルがはじけたとたんに借金が7億くらいになった。でも全部清算したらちょうどゼロになるというので清算して。全部なくなったけどマイナスじゃなくてよかった。

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ものを作ることが今一番面白い

 65歳で商売はやめた。その頃に県報で田んぼをやりませんかと書いてあるのを見て、90年代の初めの頃からNPO法人 見沼ファーム21に入ってそこから正式に農業の仕事を始めた。その合間に子供に稲刈り体験をさせたり、ジャムや野菜を子供食堂や身障者を支援する組織とかに寄付していたんだけど、木下さんという方から世一緒にも出してくれないかと言われて、世一緒にも野菜を回すようになった。今は自分の畑でビニールハウスを5つくらい使って朝から晩まで野菜作りをしているんだけど、ものをつくるってことが今一番面白い。

 “藁塚”というものがある。稲作でモミを刈り取った後のわらを、馬や牛の肥料、燃料や生活用品として冬場の農閑期に大切に保存し使うためのもので、昔は全国各地の農作地で作られていた。埼玉近代美術館の企画展でミレーの落穂拾いを展示した時、絵の中にも藁塚が描いてあるので、藁塚の専門家を日本の九州とか四国とかから3組くらい呼んできて、見沼ファーム21で藁塚を作ろうという話になって。で、周辺の農家を探し回ったら実際に藁塚を作ったことがある人が2人だけ見つかって。話を聞いたら、全国各地で藁塚の名前は違うんだけど、見沼地域には「フナノ」という藁塚があったことが判明し、我々が2008年に約50年ぶりに「フナノ」を復元した。2016年に「見沼田んぼの文化遺産・フナノ保存会」が結成されてからは、2年に1度制作している。


子供達は…

 子供は3人。1人は自閉症気味で。1人は女の子だけど太極拳のインストラクター。息子の1人は20年来引きこもりでずっと家にいる。大学も出てるしパソコンもできるけど、発達障害で人との付き合いができないしすごいこだわりが強くて、テレビでもこれ嫌だって半分以上は見てられない。20何歳くらいまではある程度いい状態で人間関係もできてたんだけど、人とぶつかっちゃうので会社は辞めざるをえなかった。現在55歳で、今のところは元気だし普通に家の中で喋る分にはいいんだけど、生きてりゃいいやというふうには思ってるけど、私どもが亡くなるとちょっと困るかなって悩んでいる。

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