川口の街で生きるとは 2021.10.20 すいごごカフェ 小田原道弥さん(川口 ねこのて)

八木下さんにけしかけられて普通学校へ
昭和41年生まれ。見ての通りのCP。現在は川口のサービス事業所ねこのてのサビ管で、県庁内福祉の店アンテナショップかっぽ運営協議会代表。川口市出身。今は市営住宅にかみさんと2人で暮らしている。
小学校は、教育大学(現筑波大学)付属桐ヶ丘養護学校を受験して入学が決まっていたんだけど、たまたま近所に住んでいた故八木下浩一さんが、「こんな近所に小学校があるのになんでわざわざ東京に行くんだ。」と言ってきて。それで近所の学校に一日入学してみたら楽しそうな雰囲気だったので、市立芝小学校に行くことにした。でもそれが運の尽きだった。というのも、同じ小学校の3年生に八木下さんがいたの。あ~だまされた!と思った。彼は人懐っこいので、全校集会とか朝礼の時とかに僕に話しかけてくるんだけど、それが嫌でね。友達の中で一人30歳のおじさんですよ。友達に「あの変な人誰?」ってしつこく聞かれたけど、仲間外れにされそうで「知らな~い」って言ってた記憶がある。でもいじめられることもなく、何も問題なく小学校生活を過ごした。
辛かった中学生活と、とうなす会での障害者運動
僕は昭和41年生まれなんだけど、ちょうど中学に入る年が昭和54年の養護学校義務化の時で、養護学校を作るなって周りが騒いでいる時だった。その頃から「とうなす会」っていうわらじと似たような団体があって、そこでもそうやって騒いでた。文部省の座り込みとかも連れて行かれて。八木下さんもいて、子供心にこの人達何やってるかわかんないけど熱気がすごいなって思いながら見てた。
中学に入ると僕はクラスに馴染めず、「お前なんであっち(特殊学級)に行かないんだよ」と言われ、僕はここにいちゃいけないの?って、戸惑った。だんだんそれがエスカレートしてちょっかいを出されるようになり、学校がつまんなくなってしまった。それで、中学2年の時にたまたま休んだことがきっかけで登校拒否になった。小学校の頃は刑事になりたい!とか思ってた。昔から文字を書けないので、勉強は空で覚えるしかなかったんだけど、成績優秀で真面目だった。でも中学になっていじめられて、当然成績は下がった。いくら勉強しても刑事とかになれるわけないし、なんでいじめられなきゃいかんのだって感じですっごいひねくれたんだよね。
でも、中学2年のお正月が明けてから、たまには学校行くかと思い、そこからまた学校に行くようになった。10月からは受験勉強をするようになり、私立は絶対受け入れてもらえないだろうと思ったから公立一本に絞って受験したんだけど、見事に落ちまして。その時はそこまでの人生で一番ショックだった。
これからどうしようと思っていた頃、また八木下さんが来て「今度とうなす会で新しい事務所を作るから来てみないか」と言われて。15歳で暇だったし、また八木下さんと一緒にとうなす会に関わり合うようになった。なんのことかわからないままボランティアの人達と障害者運動に関わった。そしたらビラまきだのなんだの頼まれて。お金は出なかったから、なんなんだこれはと思いながらも当時はそんな活動をずっとして、辞めなかった。

質疑応答
制度が整いすぎた今をどう見るか
大坂:学生が騒ぐなんて話は最近全然出てこない。障害者も健常者もそういうことへの関心がなくなってる。
小田原:今は制度が整いすぎて、選ばなきゃ暮らせないのかなって、そういう寂しさはある。それに、新しいものを作るより選んだ方が楽だからね。僕は障害があってもなくてもケンカしたり酒飲んだり、挙句の果てには彼女も。一番最初は健常者だったから、恋愛までするような「ともに」の時代だったわけ。
今までは決して楽ではなく、辛いことの方が多かったけど、それでもいじめられ慣れた経験があったから、大人になって駅員ともケンカできたし。片手であまるくらいかな、彼女もできて。小学校中学校の経験はそういう意味ではよかったのかなと。
たぶん今の子は、特別支援学校の先生に憧れて、その次は施設の職員に憧れて、いいなって見ているだけで終わると思う。
でも振られ続けても寄ってったり、そうやらないと人間関係は生き抜けない。やったらやり返す、それが付き合いなんだよって教えてくれたのが友達だったのかなと思っている。

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