鳥は空に魚は水に人は社会に 2021.11.24 すいごごカフェ 伊藤時男さん(精神医療国賠訴訟原告)【前編】

DSCN9644.JPG

継母に馴染めず、放浪の旅へ

 昭和26年仙台市生まれ。小学校2年までは仙台で、そこから高校1年までは父親の転勤で福島に住んでいた。5歳の頃母親が結核で亡くなり、父親が後妻をもらったんだけど、俺はその継母に馴染めなくて家出を何回もするようになった。継母は実の子供と俺とで差別してたし、俺のことはどうしようもないなって冷たい目で見ていたから嫌になっちゃって。父は会社を経営していて家は結構裕福だったので、1万円とか大金を盗んで家出を繰り返していた。当時はアンパンが1個10円で、東京までは1300円くらいで行けた時代。

 最初の家出では、福島から東京へ行って上野公園で寝てたら上野本署に連行されて。川崎の食堂で働いていた叔父が面会に来てくれたけど、福島の父に電話して「この子は金をかっぱらってきた、とんでもないやつだ」って小言を言っていた。福島に戻されて、今度は牛乳配達や新聞配達で貯めたお金で福島から東京へ行ったんだけど、電車の中で知り合ったヤクザ風の男に誘われて、東京で一緒に土方として働いた。でも稼いだ金は全部巻き上げられてしまって、また警察に行ったら叔父が来てくれて説教をされて。それから叔父のレストランで働かせてもらうようになっても、4か月くらいでまた飛び出して福島へ帰った。そこでは父親の会社で働いたけど、やっぱり半年未満で飛び出して仙台の実家へ行って。仙台では寿司屋で使ってもらったけど、板前がケンカしたのが嫌でまた飛び出して。そんな感じでどうしようもなく飽きっぽくて。


でっちあげのアルコール依存症からの39年もの入院生活

 その後は珍しく半年くらい叔父のレストランで働いていたんだけど、店が終わってから酔っぱらっていた時、どうしてか俺がナイフを持ち出したので、「時雄がおかしくなった」と騒ぎになった。病院で「どんな気分ですか?」と聞かれたので「いい気分だ」と言っただけなのに、それでアルコール依存症にされて、東京都町田市の鶴川精神サナトリウム病院というところに入院したのが、初めての入院。その頃は急性期と呼ばれる一番悪かった時期で、「俺は天皇と親戚なんだ」なんて誰が何を言っても治らない病状がしばらく続いて、2年半入院した。

 退院して横浜の肉屋で働くようになったんだけど、4か月くらいで泥棒が入って。もしかしたら殺されていたかもわからないという不安から、また状態が悪くなった。それから2回目の入院をしたけど、また躁状態が続いた。でもある時、作業療法士に「あんた、そんなこと誰でもできんだよ」って声をかけられて、それで自分はだいぶおかしかったなって気持ちが芽生えて、反省して静かにしていた。でもまだ放浪癖は抜けなくて、天井の一部分を外して脱走したことがある。連れ戻されると、父親が面会に来て「お前は本当にどうしようもないな、東京に置いておくのは大変だ」と、福島の双葉病院に転院させられ、それから39年も福島の病院に入院していた。

DSCN9649.JPG

働けど働けど退院できない

 院外作業で養鶏場に仕事に出されてから気持ちが安定してきた。結核性肋膜炎という病気になって1年くらい休んだ時以外は、どういうわけか働きたい意欲があるんだよね。だから、院外作業に出してくれと言って、プラスチックの工場で検査・選別の作業や、コイル巻きの工場の仕事を1年半くらいずつやった。でもなぜかいつも会社がつぶれそうになって仕事がなくなっちゃうから、ぶらぶらして、しばらくしてまた働いて、って生活だったんだけど、退院の話は全然出なかった。それでもじっとしているのが嫌なたちだったし、働けば退院出来るんじゃないかという欲望があったから働いていた。

 今度は養鶏場で10年くらい働いた。入院する前は働いても飽きっぽくてすぐ辞めてたんだけど、模範になろうと思って、次の院内作業では病院で糖尿病や腎臓病の人の特食の配膳の手伝いなんかをする給食作業を13~14年やった。それでも、働いても、働いても、退院の話は出ない。さすがにこれはおかしい‼と思ったから最後の給食作業を辞めた。あの病院はレクレーションで海水浴とか一泊旅行とか良い思いさせるんだけど、決して退院させずに何年も置く。そうするとみんなそこの生活に慣れちゃって退院を諦めちゃう。施設症なんだよ。俺も施設症に陥ったから退院する気がなくなっていて、原発事故がなかったらずっといたかもしれない。

DSCN9650.JPG

後編へ→https://room-yellow.seesaa.net/article/202203article_4.html

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック