地域で共にはつらいよ 2021.12.15 すいごごカフェ 増田純一さん(川口・ねこのて)

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施設は嫌で、煎餅を売って生計を立てた若かりし頃

 1966年、川口生まれ。2~17歳まで病院から養護学校に通う毎日だった。小さい頃は北療育園に通って、北養護学校(現 東京都立北特別支援学校)に移り、1979年に養護学校義務化になってからは越谷の養護学校へ通った。でも、高等部1、2年の時に親が養護学校を中退させて施設に入れようとした。だけど、施設は嫌だし遊びたかったし。あと、一人で暮らしてみたいというのが一番大きかったかな。それで親とひと悶着あって16、17歳の時に家出した。その頃、わらじの会と同じような「川口とうなす会」というのがあって、越谷養護を中退してからはそこの事務所にもぐりこんで暮らしていた。僕が住み込んで1、2年で会が解散しちゃったんだけど。その後は失業保険をもらいながら健常者の友達と2人でアパートで暮らしてたんだけど、その友達から暴力を振るわれるようになったこともあって、別のアパートを見つけて介助を入れながら1人で暮らすようになった。

 生活費はせんべいの訪問販売をしてなんとか自活するようになった。とうなす会の中にリサイクルショップがあって。そこに卸していたせんべい屋さんが協力してくれて僕に仕入れさせてくれたの。それで、1人であっちこっちの家に行ってピンポンしながら売って。夜は自分の行きつけの居酒屋におせんべいを持っていくと、お通し用に買ってくれたり。越谷養護学校まで行って売ると先生が買ってくれたり。そんな感じで、せんべいは1個50円くらいだけど、儲けは月10万~20万いかないくらいまでいった。僕の場合、実家が米屋だったから、近所の友達といろいろ遊んだり、お風呂屋さんに行くと入れ墨のおじさんが背中流してくれたり、そういうのがあったから買ってくれてた部分も大きい。今やれって言われてもたぶんできないと思うよ。でも、今度は養護学校時代の同級生がアパートに泊まり込むようになって、金を無心されるうちに生活できなくなってしまった。しばらく後に「生保を取ったらどうだ」って八木下さんに助言をされて生活保護を受けられることになった。

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嘘を書かれて不合格にされた高校…そして裁判へ

 その後、僕が25、26歳の時に埼玉障害者市民ネットワークの活動に参加し始めて、やがて「どの子も地域の公立高校へ」の活動に関わり、そのうち会議の中でいっぺんに大人の障害者が高校を受けるとどうなるのかって話が出て、僕も含め軽い気持ちでみんな一斉受検して。でも僕は高校に受からなかった。理由としては、身体障害者手帳のほかに療育手帳を持ってるってウソを書かれていて。それで、裁判をした。

 今は、朝の9時から夜の12時までヘルパーさんに毎日入っててもらって、その後は1人。家にいる時はほとんどはテレビ見ながらベッド生活かな。介助者は1日同じ人のが多い。木曜だけ6時で入れ替わるけど、他の日は9~24時まで一緒。ねこのてには水曜だけ行ってる。1ヶ月に1回は県庁内のかっぽ、社団の事務局に行ったり。あとは学校問題のことに顔を出したり。ヘルパーがいるから前みたくぶらぶらできなくなった。

質疑応答

山下:裁判の話。最初越谷養護学校で、高校に入学するための願書にっくつける内申書みたいな調査書をつけるんだけど、そこの中に純ちゃんが持ってない知的障害の手帳を持っていると、公の文書に事実じゃないことが書いてあったので純ちゃんが原告で裁判をしたんだけど、「療育手帳を持ってるって書いてあるのが差別だとしたら、じゃあ本当に持ってる人はなんなんだ。手帳を持っていようが持っていまいがみんな高校を希望する人は受け止めていくようにしてもらいたい」と、途中で裁判内容を変えた。県民であって高校に行きたいって人を、枠があるんだったら空けとかないで入れてくださいよと。
樋上:今は居酒屋には行ってる?電動のトラさんて言えば増田純一だってイメージがある。
増田:行ってるけど、ヘルパーが仕事中だって言って飲めないから。昔みたいにゆるくないからね。だからどうにか生きてるよって顔だけ出して。

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