上福岡の街で生きて 2022.3.2 すいごごカフェ 下重美奈子さん(埼玉障害者自立生活協会事務局)

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現在はヘルパーの仕事がメイン

 23年間ヘルパー事業所の所長をしてたけど、今はセンターの理事や、移動支援と重度訪問の資格を持っているので、土日は生活ホームみどり荘に住んでる方のへルパーをやってる。それから、県庁のかっぽの店番を1ヶ月に2回程。あと、一般社団法人 埼玉障害者自立生活協会では事務局長をしていて、事務所の住所は私の住所を貸しているの。今は上福岡駅から結構歩いたところにあるUR団地で、ヘルパーを入れながら一人暮らししてる。家計が大変だけど、今住んでる所は気に入ってるのであそこでできるだけ過ごしたいなと思っている。


戦いながらも、楽しかった学生生活

 私は福島県で生まれて、1週間後に「この子はなんで泣かないんだろう、おかしいぞ」と診てもらったら脳性麻痺とわかって。昔は訓練をすれば身体は動かせるようになるという教えだったから、小さい頃は訓練訓練の毎日で、私はもう嫌だって親に言ってたんだけど、よくなるから我慢しなさいって言われてた。

 野島さんと同じ北養護学校(現・東京都立北特別支援学校)に小学校中学高校と行った。でも、中学の時に埼玉に引っ越すことになったら、学校から「埼玉の養護学校に行きなさい」と言われてしまって。でも昔は埼玉には肢体不自由の養護学校は熊谷にしかなくて。駅から遠いし寮には入りたくなかったから、このまま行かせてくれと言ったんだけど、それが私の親との闘いの1つだったかなと思う。結果、私だけ東京の住所に移してもらったの。

 高校生の時は電車通学が本当に楽しかった。北養護学校には指定の制服はなかったんだけど、私は親に制服を買ってもらって、それを着て養護学校に行ってた。昔は中央大学、慶応、明治、家政大学とかいろいろな学校の大学生との交流行事があった。私もよく一緒に出かけてたんだけど、おかげで高校生からお酒を飲むようになったわけ。親に怒られたけど、私にとっては良い経験をさせてもらったなと思う。

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作業所での仕事、二次障害の発症を経て

 就職先はなかなかなくて、作業所(更生施設)に入ることになった。そこでは病院のタオルやシーツとかのクリーニングをやってて、私は仕分けの仕事をしてた。同じ歳の指導員から「“先生”って呼ばないとダメ。利用者と支援員ということで決まってるんだから。」って言われたことが悔しくて、その先生をどうにか追い抜いてやろうと思い、うるさく質問したりした。そしたら職場の班長に任命されてしまったんだけど、その立場を使って職員と仲良くなり、休みの日は職員と一緒にコンサートに行ったりして楽しい時間を過ごした時もあって。その時、私は障害を持ってるから、ずっとここにいるんだろうなと思っていた。

 でも29歳の時に首が痛くなって調べたら、これは二次障害でもう治りませんと言われて。それで、10年間いた作業所を辞めて埼玉の実家に戻った。1年間何もしないまま休んでいて、何かやらなくちゃいけないなと思ってた時にたまたま障害福祉課からとある話し合いの場を紹介されて行ってみたら、ふじみ野駅ができるからエレベーターをつけようって話を隣で話していたのが、センター21の代表の有山さんだった。「センター21というところがあるから1回見学に来てみたら。それに、上福岡駅の近くに自然食品を扱う豆の木という障害者が働くお店があって、やってみないか。」と言われて、それで豆の木で働き出した。


地域で暮らしてきたから、働くこともできた

 そのうち、センター21の中でIさんていう最重度の人がみどり荘に入居したんだけど、彼は24時間介助が必要な人だったので、毎日ボランティアさんに電話をかけたりするのが大変だということで「二人三脚」という障害者支援をする事業所を立ち上げることになった。私はその二人三脚の所長になった。最初はヘルパー制度がなくて、昔は上福岡も全身性があったから、全身性で1時間100円程のコーディネーター料でやってた。お金がなくて、私達の給料も最初は1時間60円から。一括で入れてもらった全身性の介助料を分ける時もお金が合わなくて困った。二人三脚の求人募集をしたり、ヘルパー使いませんか?って営業もした。

 というような、いろんなことを経験した。今思えば、施設にいたらこういうお金を分けたりコーディネーターをする仕事はたぶんできなかったんだろうと思う。社会に出て、失敗をしながらもケアシステム二人三脚という仕事ができたことは、私にとっては障害者の仕事として成り立ったんだろうなと思った。

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