GHから一人暮らし 2022.3.9 すいごごカフェ 青木繫明さん(世一緒 木曜当番)

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一般就労で多くの職場を経験した30代までの人生

 昭和22年7月5日生まれ。74歳になったが、人生100年どう生きるか。

 学校は中学は行ったんだけど高校はみんな落ちちゃった。就職は醤油関係の仕事がしたいと先生に話をして、醤油の丁稚奉公に行くつもりだったんだけど、昭和38年3月18日にN工業へ入社した。1回目の給料は9800円くらいだった。2回目の給料の時までにはプレスで怪我して辞めちゃった。指の第一関節が2つ欠けてる。

 半年くらい家でごろごろしてたんだけど、自衛隊入ってみるかって知り合いに言われて一応見に行った。17歳と少しの時だったから入れなくて、自衛隊の人の斡旋で18歳になるまでのつなぎで違う仕事をした後、自衛隊に入った。一般部隊でモールス信号をやった。海へ向かって打つのは音がきれいに聞こえるからわかるけど山は引っかかっちゃって聞こえない時がある。ジープで移動しながら通信隊同士で話したり、それが訓練だった。ボーナスは11月と3月で、給料は13800円だった。でも19歳の時に1年2か月で辞めちゃったけどね。依願退職。毎日のようにネチネチ言われていじめられてアタマきて辞めたいって言って。掃除はきちんとやってたのにやってないって文句言われたり。脱走する人もいたけど、脱走するよりいいじゃない。

 それから20歳~21歳はパチンコ屋の店員になったり、22~23才くらいの時に製本工場。夜勤のアルバイト。学生とか主力に採ってたけど、学歴関係ないっていうからさ、30歳近くまでやってた。印刷の方も行ったけどね。漫画が見たいからさ。できたやつが見られたから。一般就労だよ。中卒は金の卵って言われてた時代で、頑張れば使ってくれた。30歳で土方にいって8年くらいやってた。清水建設。たたきとか。昭和41、42年頃だね。コンクリ打ったり、一輪車使ったり、重機が入れない所は坂を上って鉄筋上げたりね。

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病気は治ってたのに、20年間に及んだ入院生活

 39歳の時に幻覚幻聴に襲われ、戸田市の一般病院で「気違いです。精神科へ相談してください」って言われて入院することになった。投薬で2~3日ぐらいで幻聴も聞こえなくなったし、11ヶ月で退院できた。蕨市の家へ帰宅して、兄が時々来てくれる生活になった。さいたま市の障害福祉課に申請して2級を取った。

 蕨市の福祉課と話して、北浦和駅近くの訓練所へ行くことになった。紙袋の底へ厚紙を貼る作業をしながら週2回位通った。1ヶ月後位に与野本町の作業所へ週3回通って、野菜をハカリに乗せたり箱に詰める作業をした。

 3ヶ月位経ってから西川口のゴム工業の仕事を紹介された。ローラーで回して粉塵にするゴムで高圧で粉にする作業。半年で辞めたんだけど、とにかく働かねばならないと思って。それでだんだん疲れがたまり精神的に追い込まれ2度目の入院になった。このことで兄に「もう退院させない」と言われて、それから39歳から59歳までの20年間、保養院に入っていた。幻聴幻覚に関係なく出てくるなってことで、兄貴が出してくれなかった。


退院、グループホームを経て、今は楽しい一人暮らし

 平成19年5月19日に退院してグループホームに入った。僕の場合は社会が長く入れとくのはかわいそうだ、世の中が出すべきだって社会風潮があったから平成19年に出られた。そういう運動が起こる時と出すなという時と波があるよね。今は、この人おかしいと思ったら全部入れちゃえって時代になっちゃってる。僕は入院していた時は大人しくて騒いだりしなかったし、保護室には1回も行ったことなかったのもあるけど。掃除やったりするしさ。退院する時には、薬を服めば大丈夫だからということだった。現在も薬は服んでる。遺伝なのかわからないけど、兄も63歳頃になって自分と同じ病気になっちゃった。

 平成20年頃から、グループホームの活動で北越の桜見物に行くのが楽しかった。コンビニやマクドナルドでお金を使うのが楽しかった。ビールを飲みながら桜を見る、自己紹介をした後弁当を食べる雰囲気が楽しかった。

 今は団地で一人暮らし。今は団地で一人暮らし。週二日がB型で作業。〇曜日はヘルパーが来る。△曜日は第1が世一緒の当番会議でほかの週はあいている。木曜は世一緒当番。▢曜は在宅。週末のどちらかが訪問看護。月1回✖曜にマットレスとかふとんを丸洗いがてら食事に行ったりもする。特に最近忘れ物が多くなったが、友達と脳トレや将棋などをしながら在宅で楽しく暮らしていきたい。結婚もまだ諦めてないよ。
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