叶夢亭後の越谷で 2022.3.16 すいごごカフェ 樋上秀さん(たそがれ世一緒管理人)

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人生で一番、暑い、熱い夏の87年

 今から35年も前の1987年、世一緒のすぐそばに重度障害者職業自立協会の店・吐夢亭をオープンして、93年まで店長をしていた。吐夢亭(とむて)というのはお店の名前なんだけど、武里のリサイクルショップぶあくの兄貴分的なお店だった。名前の由来は北欧の守り神トムテから。おおざっぱに言うとムーミンの仲間。

 僕は武里団地出身。武里団地がオープンして一番初めの子供の世代で、そこから同じ団地内にあったあゆみ幼稚園に通って、地域の小学校中学校を卒業した。その後23歳の時に母親が入院したんだけど、絶対的な存在だった母親だったから、鬼のいぬ間に家を出ようっていうことで、87年の3月に母親が入院して7月に吐夢亭がオープンしたけど、その春から夏にかけての3ヶ月あまりが、レジュメに書いた通り「人生で一番、暑い、熱い夏の87年」かな。


すったもんだの求人、求職、就職を経て立ちあがった共に働く事業所

 吐夢亭をやるきっかけが重度障害者の職業的自立っていうことで。障害者雇用促進法の法定雇用率が、当時は国及び地方団体が1.8%。雇用促進法の制度では障害者の法定雇用率を達成していない企業から納付金を徴収するんだけど、障害者を雇うより納付金という罰金みたいなものを払っちゃった方が安上がりなもんで、逆に納付金を払ってる企業が多かった。この納付金は障害者雇用に積極的な企業に分配される調整金や助成金などの財源になる。

 そこで、その助成金をもらっていこうっていうことで、八木下浩一さんが重度障害者職業自立協会っていう長ったらしい名前の会社を作って、そこが運営する形でリサイクル店をオープンした。そして、樋上がその重度障害者職業自立協会の求人票を八木下さんの指示で作って、八木下さんの自立協会の事務所が川口にあったので、川口のハローワークにその自分で作った求人票を提出しておいて、後日自分が求職者として地元のハローワークに行くという、不思議な体験をすることになった。ハローワークの窓口では、ふつうの企業がほしいのは軽い障害者の人のはずで、”重度障害者職業自立協会”なんてあやしい…って感じで、「そんな会社があったとしても偽物でしょ、だから見せられない」なんて言ってきた。だけど、口に出して言うことじゃないけど、求人票を作って、それ自体はハローワークで受け付けられたから絶対あるはずで、何が何でも探すということですったもんだして、最終的にはハローワークから紹介を受けることができた。

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今も思い出す、あの川風、そして「共に働く」と「自立生活」の微妙な関係

 吐夢亭をオープンするのに、相棒の4つ年下の竹沢和恵ちゃんも自立協会に就職した形で一緒に入った。和恵ちゃんは脊髄損傷の車椅子の子で、武里団地から来てた。僕はその時はまだ車椅子ではなくて、歩いてた。毎朝せんげん台から越谷駅に着くと、僕が和恵ちゃんの車椅子を押していって、吐夢亭の手前の橋のたもとに着くと、そこからはずっと下り坂になっているので、車椅子をぱっと離して、和恵ちゃんはすーっと滑るように降りて行き、店の前の短いスロープを上がって店の中まで入っていく。樋上は駅から橋まででへとへとになってて、車椅子から手が離れた瞬間、川風が来ると「あ~気持ちいい~」って、そういうのを毎朝やってた。

 7月にオープンしたけど、8月にわらじの夏合宿に行きたいから店を閉めると言ったら、水谷さんから合宿に行くなら代わりの人を店に置かないとだめだって言われて、和恵ちゃんと話したら、「じゃあ行かない、やる」ってことになって、樋上は自分ち(実家)じゃなくてわらじの会のことを想いホームシックになった。

 その年の10月には、雇用促進法のお金を使って社宅として家を借り、武里から東越谷に越してきて初めての一人暮らしを始めた。その家は居抜きで、家具や設備などをつけたままにしてあったもんで、樋上は身一つでその家に越した。その時、藤崎稔さんが樋上んちに泊まりに来た。稔君はYさんに介護をしてもらって、まだ僕も風呂に1回もまだ入ってなかったのに、稔君が先に入って。その後稔君は布団も樋上よりいい布団で。僕は普段旅の時は神社の境内とかで寝たり、布団とかも関係なくどこでも寝られるんだけど、その時は、稔君を見てていいなって思った。


質疑応答

山下:障害者を雇えば企業にお金が出る雇用促進法があるけど、比較的軽度の障害者のみだったから、ザル法と言われた。重度の障害者が生きていくには入所施設に入るしかなかった。それで、「重度の障害がある人達が地域で生きていく制度がまったくない。重度障害者は雇ってもらえないじゃないか」と、県と話をしたところ、「皆さんが会社を作ってそこで雇ってくれれば、お金を出せる。」と言われて、樋上君が雇用主の代わりに申請に行って、なおかつ雇ってくださいと自分で言いにいった、という話になった。そんな時代のエピソードですね。

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