トリオ・ザ・ナースと一緒にひらいた後半生  2022.3.23 すいごごカフェ 中井吉弘さん(多機能「世一緒」非常勤)

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人生を180度変えた父親の介護の始まり

 自分の人生を振り返ってみても後悔はしてないけど、最初は平凡なサラリーマンだったのが急転直下、50いくつで仕事を辞めて、変わらざるを得ない状況になったというのが本音。前半と後半は全く違ったものになった。
 仕事では、長いこと造船会社の人員整理をしていて、勤めてた部署が総務に変わって全体を見るようになったのが最後で、サラリーマンを辞めた。そのきっかけは父の介護だった。

 両親は愛媛県宇和島市で製材所を経営していたが、私たち夫婦が1979年にせんげん台に家を構えた時、ちょうど父も仕事を辞めて島根県に家を移した。でも、母親からの連絡で父親が徘徊するようになり、親戚に迷惑をかけることが多くなってきたと知った。平成2年に軽い脳梗塞で益田赤十字病院に(日赤)に急遽入院したが、10日間高熱が続いたため痴呆が進行してしまい、寝たきりになった。田舎の都市なのでヘルパーもおらず、基本的には家族が家族の面倒を見ることが多いというのが赤十字病院の当時の体質で、さあ大変だということになった。しかし、母も体が弱いのであまり無理ができず、それで私も付き添い介護をするようになった。私の妻も仕事をしてたから連れてくるわけにもいかなかったし、最初はとにかく2週間に1回、1泊の付き合いを母親と約束して、病院に寝泊まりしながら介護をしていくということを決めた。
 しばらくして、30年勤めてきた会社を退職して父の付き添いに専念することにした。


本当にありがたかったトリオ・ザ・ナースの存在

 ほとんど毎日を病院で父の面倒を見る介護をスタートしてみると、結構大変で。吞気に見ることはできない、身の回りのことはすべてやらないといけないのが現実だった。看護婦さんが手伝いに来てもらえるのが唯一の助けだった。父は2年半~3年近く状態は変わらなかったが、次第に言葉が出なくなり、いつの間にか平成5年、84歳で、静かに長い眠りについた。その後母も追いかけるように翌年に83歳で亡くなった。
 あのしんどい時期をくぐりぬけられたのは、トリオ・ザ・ナースの存在があったから。25歳くらいの3人組の看護師さん。とにかくその3人はものすごい明るくて動きがいい人達だった。すいぶん助けてもらった。彼女達の言うことはなんでも聞こう、そのかわり私のいうことも聞いて、という感じで。必ず3人のうちの1人が入れ替わり立ち代わり顔を出してくれて。私がいない時に親父がドスンと音を立てて落っこちたりすると、どうしたのーって声を聞きつけて助けてもらったり、ほったらかしじゃなくて必ずアンテナを立てておいてくれた。おかげで、3年も面倒を見る事ができた。

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人とのつながりを大事にして、これからも頑張りたい

 ホームヘルパー2級は父が入院している時に取った資格。通信教育と、看護師さん達が教えてくれたり実地でもやらせてくれたので大変助かった。大変は大変だったけど、父親が元気な間にどうにか取れたかなと思う。
 父親が亡くなる前後は、いろんな形のボランティア活動でも動いてきた。越谷市で活動指導員として地区センターとかの仕事を20コマくらい引き受けていたり、最近でもコロナの前までは子供達を相手にずっとキャンプ指導やレクリエーションをしていた。
 今までに取った資格の「キャンプディレクター1級」「レクリエーションコーディネーター」「余暇生活開発士」「野外活動指導者」「ホームヘルパー2級」等、こういうものが人生の後半戦で活きてきて、人生で何が役に立つかわからないなとびっくりした。現状、こうした資格が今も使えるのがとても助かっている。
 けど、新しい人、新しい形でやっていけばいいから、私達の年代としてはそろそろ引き際かなとは思っている。

 いま人生をふりかえると、サラリーマンの時はひたすら月給をもらってればよかったのかもしれないけど、後半戦は自分で何でもやらないとやっていけなかった。でもそれで人生を乗り越えてこれたからよかったかなと。親子3人が何かをやるって決めたらお互い助けるってやり方だったから、すごく助かった。
 家内が4か月くらい前に亡くなったんだけど、なるべく早く追っかけないように、もうちょっと自分の人生頑張ってやっていきたいなと思っている。今までも人との付き合いの範囲が広くなっていって、皆さんに助けられた。人と人のつながりは大切だなと思っている。

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