孤独の城を出た日から 2022.9.21 すいごごカフェ 平林小太郎さん(熊谷CIL遊TOピア)
次第に塞ぎこむようになっていった子ども時代
東京都杉並区で生まれた。3歳の頃から父親とは離れて熊谷で生活。まだ両足があったので、地域の小中学校へ。
ひきこもってた期間があり友人関係はほぼゼロだった。当時の同級生に自分の印象を訊いたとしたら、十中八九しょっちゅう泣いてるような子だったと言うと思う。皆と一緒じゃないこと、他の人から逸脱してるようなことがすごく不安で嫌だった。
中3の時、骨髄炎という病気で片足を切断した。すごくショックだった。足のレントゲンをとると膝の上から太ももにかけて真っ白で抗がん剤で治療していた。食事については偏食で、あとは思春期なのでトイレは自分でやりたいと思っていた。それで寝不足と栄養不足で、食べても戻してしまうような状態になった。入院してから50キロほどあった体重が、足を切断したら37キロになってしまった。身長は170くらいあった。
片足を切断し、両足でバランスをとってたから、座ったりするのが難しかった。傷口は1週間くらい見れなかった。その後少し抗がん剤で治療した後、東京で義足をつくった。退院時に中3の時同じクラスで、あまり仲良くなかった子がお見舞いに来てくれて嬉しかった。
高校生になってからひきこもるようになった。高校生のとき、ゲームソフトを貸していた友人に今度の土日でいいから返してほしいと伝えた。そしたら今持ってくと言われ、あ、返しに来たあと一緒に遊んだりするの嫌なのかな、って考えちゃって。
障害者になっていちばん怖かったのは、友人や家族の見る目が変わるんじゃないかということ。それで人が怖くなってしまった。自分の中では障害者になった時点で人生終わったみたいな感じがあった。
兄が働くこともせず借金をしていたらしく、次第に家のお金がなくなっていった。結果家を手放すことに。祖母の家に母、兄と暮らしてたが、祖母もずっと住んで来た家を手放すのは精神的にも辛かったと思う。それで認知症みたいになって、食事とかも拒否するように。離れて暮らしていた父は生活保護を受けるようになっていたらしく、がんでなくなった。それで身内だけで葬式をした。色々なものを失ってきたなと思う。
自分の話を聞いてくれる人、自分を必要としてくれる場所との出会い
その後15年間ずっとひきこもっていたが、2009年の5月20日、熊谷に障害者相談支援センターがあると知った。自分はとにかく話を聞いて欲しかった。家族のこととか、生きてていいのかとか。電話をしたら相談員の人が出て、話を聞きに伺いますと言ってくれた。でもそれが自分のプライドを傷つけられたように感じ、自分で行きますと言った。何年も履いてないジーパンをはいて。松葉杖をもって、勢いのまま外に飛び出した。
場所も知らなくて、2時間くらい歩いたと思う。当時食事もあまり取れてなかったため脱水症状を起こしてしまい、薬屋さんへ。店員さんがタクシーを呼んでくれて、なんとかセンターへ。それで相談員さんに思いの丈をぶちまけた。
センターでは手帳をとるようすすめられたが、当時は気が進まなかった。代わりに、パソコン教室をやってたのをみて、就職に繋がるかもと思い通うことに。
しばらくして遊TOピアのチラシが目に入った。障害者を必要としていると。時給100円だったが、藁にもすがるおもいで飛びついた。
最初は領収書に印鑑を押すとかそういう仕事をした。最初時給100円だったのが、月収5千円になった。その頃障害基礎年金をもらうようになった。生活保護も受けた。32歳の時だった。5年前までしか遡れないので、もう少し早くもらえてれば家も手放すことにならなかったし、祖母も元気だったのかなと思う。
その後、車の免許を2ヶ月でとった。遊TOピアでは初めは事務的な仕事をやってたが、2年目から障害福祉サービスの請求業務をやることに。出勤簿のチェック、パソコンの入力などで、今でも続いてる。
少しずつ障害のある自分も受け入れられるように
遊TOピア2年目でわらじの会の研修に参加。自分の中で障害者の生活、障害との向き合い方のイメージが変わり、いい意味でショックを受けた。特に覚えてるのはわらじの合宿に参加したとき。駅員に頼まずにエレベーターや電車に乗ってて、あ、そんなことしていいんだと。自由でいいなと思った。夜通し自分のこととか話したりした。
遊TOピアの始まりは、1994年に前理事長の飯田さんがアメリカに行って自立生活センターを学び、熊谷でも開くことになったこと。ちょうど自分が引きこもり始めたころだった。
2012年4月、パートとして給料をいただけるように。その後障害児者生活サポート事業を始めて、今では所長を務めさせてもらっている。
何年か前から、月曜日に「なないろ食堂」という子ども食堂の手伝いをしてる。結構大きな所で、日中は普通のレストランとしてやっている。多いときは親子で130人くらい来たりする。コロナ前はビュッフェスタイルでみんなで食べたりしていた。
元々子供は好き。子ども食堂には学生のボランティアも来てるので、ヘルパーをやらないかと声掛けして実際に何人か来てもらったりしてる。
質疑応答
大坂:足を切断して、15年間くらいひきこもっていたと。障害を受容するとよくいうが、15年間どんなことを考えながら過ごしてた?
平林:10代のころはエヴァンゲリオンにハマって。あれって主人公がすごいダメな子で。それで自分を投影してた。その頃は人が怖くてドラマも見れなくなって、フィクションのアニメのほうがハマりやすかった。
10代のころ2人の友人がいて遊びに来てくれたりしてたが、自分の方から遠ざかってしまって。そこからは落ちてくだけ。録画したものを何回も見てた。「ダウンタウンのガキの使い」とか「水曜どうでしょう」などのテレビ番組に救われた。
大坂:センターに行く時は逡巡した?
平林:電話をかける前は少しあったけど、家に行こうかと言われ、怒りの方が上回った。これまで何もやってくれなかった家族へとか、何もやってこなかった自分へとか色々なことへの憤り。担当職員さんには当たってしまい申し訳なかったと思う。
障害を受容できるようになったのは割と最近。熊谷にあるこどもが自由に遊べる保育園みたいな所に行った。子供って正直で不思議そうな目で見てくる。でも1人の子が自分を見てかっこいいと言ってくれて。それがきっかけの1つ。
黒田:ある人から自分の子供が今学校に行けてないという相談を受けた。ひきこもってたとき外の世界はどう見えてたのか。
平林:自分は左足がないというのを言い訳みたいにしてたところもある。片足ないからしょうがないじゃないかと。中卒で頭も良くないが、今の職場が恵まれてるからここまでやれてるなと。
「『ひきこもっても将来働けるけど、できれば短い方がいいですよ』と15年ひきこもってた人が言ってた」と伝えてみてほしい。
黒田:自分も障害があるが頑張って、バイトとして雇ってくれた親方が良くしてくれてる。色々な行事とかに呼んでくれたり。自分が頑張ってやっていけば世の中に通用する。
山崎:義足は使わない?
平林:2回作った。遊TOピアでも義足ランナーについて取り上げたりしてて、それで自分も作ることに。でも、パラリンピックなんかに出る人より自分は関節が1個少なくて、コルセットみたいな感じになる。服と同じで太ったら変えないとだし、痛い。松葉杖での生活に慣れてきたから今更変えるのもなと思ってやめた。
平林:障害を受容できたかの話だが、片足がないのがある意味強味みたいな。片足なくて松葉杖の人ってレアだよなと思う。子ども食堂とか行っても必ず見られるけど、かえって話とかできる。子どもたちにとって自分の存在って目立つと思う。そう考えるといいんじゃないかと。
樋上:車いすを使うようになってからは、電動車いすを見てかっこいいという子がけっこういた。最近はそういう子が減ってて、一丁前に「これは電動車いすって言うんだよー」と言ったり。最近の子は情報が発達してるのかなと。
平林:何年か前、熊谷市と遊TOピア共同で開いた「心のバリアフリー教室」に、講師として行った。学校の体育館に入るときはジロジロ見られたりするけど、実際話をすると友達みたいな感じで話せたり。話せばわかるってこういうことだなと。こういう人もいる、けど自分たちと同じなんだと思ってもらえたらと思いながら、子どもたちと接してる。
💠障害者の職場参加をすすめる会facebookでの報告
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