やぎも草木も子どもたちも 2022.6.22 すいごごカフェ 齋藤信子さん(一の割自然保育園園長)
小学校教員から保育園の先生へ
社会福祉法人若竹会一ノ割自然保育園の理事長と園長として、秒刻みの中を仕事させていただいている。食育を中心に献立を立てたり、安心安全の食材を提供するのが私どもの保育園の趣旨。
戦時中、父は教員だったので戦場には行かずにすんだけど、父と母と長男は今で言う北朝鮮に一緒に渡り、次男、長女、次女、三女が生まれ、その後母が私を身ごもった時は終戦。家族は必死の思いで日本に帰ってきて、私は日光の山あり谷あり川ありな所で生まれ、育った。小学校では1年から6年まで一緒になってかくれんぼや缶蹴りなんかをして過ごした。中学の頃は、田植えと稲刈りの時期は学校が休みになる農繁期があって、みんなで稲を刈ったりして両親の手伝いをした思い出がずっと残ってる。
高校2年生くらいの時に父が狭心症になった。料理するのが好きだったので食事で病気を治せないかと、その時料理教室の先生になりたいと思ったんだけど、あんまりお給料はもらえないという話を父から聞いて、教員になる決意をした。でも、実家の栃木県では教員採用試験がものすごく難しいので、合格率が高い埼玉県の教員試験を受けて。それで合格し、春日部市内にある豊野小学校というところで16年勤めた。
ある時、主人の親戚が田んぼをつぶして保育園をやるという話が出た。そしたら、私に保育園に勤めてほしいと言われて。保育士の資格はないからって最初断ったんだけど、実際私が保育園に勤めないと最終的な許可が出なかったんで、長女が3歳の時に小学校教員を退職し、昭和54年に一の割保育園という施設名で認可された。
無我夢中で息子を育ててきた
その年の11月27日に息子が生まれた。破水で市立病院に緊急入院したんだけど、促進剤打っても産まれなくて。三日三晩苦しんで、助産師さんに「帝王切開してください。」って言ったら、「あなたは職業上ずいぶん弱いわね。」って言われたの。「赤ちゃんを守らなきゃいけないのに、私が意気地ないって言うんですか。」って言ったけど、「そうです。」って…忘れもしない。ここの病院来て失敗したと思った。3日目で産まれたんだけど、赤ちゃんの頭がきゅうりみたいに伸びちゃってて。育ててきたけど、行動や言葉を見るとやっぱりおかしい。あるドクターには「帝王切開して早く出せばこんなことにならなかった。」って診断されて…その時は泣いた。
息子はお乳を吸う力が弱かったし、咳は出るし、湿疹もひどくて…遠くの有名なお店まで漢方を買いに行って煎じてみたり、生薬を煮出したり…育てにくくて、半端じゃない努力をした。それが今の食育につながってるんだけど。そんな中、4年生の頃から家庭内暴力が始まっちゃって。あっちの小児科、こっちの心理カウンセリングって駆け巡ったけど、最終的には発達障害の子供達を専門に見ていた先生から広汎性発達障害だと言われた。気持ちの凸凹が平らになるようにすればコミュニケーションが取れるようになるから、ソーシャルスキルの訓練が必要と言われたけど、30何年も前にそんな場所はなかった。発達障害と聞くのも本当に稀だったんだから。
本当に難しいけど、それでも受け入れようと決めた障害のある子供達
そんな経験から、保育園でも障害児を受け入れようと考えてた。自分は四季折々の自然の中で育ったからこそ生きる力がついたと思ってたから、子供はそういう中で育てていこうって決意した。それで、園名に“自然”をつけて一ノ割自然保育園に変えて25、26年経つ。動物も、クジャクやアヒルから始まり、山羊、インコ、りすを飼ったりいろいろやってきて。今いる山羊は飼って7年くらい経った。
今は障害のあるお子さんは4人いる。でも本当のこと言うと、まとめらんないの。言葉も出ない子も多いし、障害児といってもいろんな種類の子がいて、それこそ物を投げる子もいるから。本当になかなか難しい。だから面接でこの程度だったらお預かりできるなと確認してから始まるんだけど。でも、1人につき先生3人はつけられなくて、どうしても保育士が疲れて辞めてっちゃう。だから、法人で児童発達支援センターと放課後等デイサービスを11月1日にオープンした。あと、今息子はだいぶよくなって、一般社団法人武州山谷会Moutain&Valleyさんにお世話になって一日も休まず行ってる。そんな実績を作ってくれてるから、うちの土地を貸してB型就労施設を作る計画をしていて、来年4月にオープンの予定。そんなこんなで1日1日があっという間です。
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