三つ子の子育て そして…子離れ 2022.10.13 すいごごカフェ 日吉孝子さん(当会理事、事務局員)

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思いがけない三つ子の妊娠

 子育てといっても、子供達は40才を超えて、かなり忘れてしまったので、印象に残ってることをお話したい。まず、子供ができたのを確認しに病院に行った時に、周りの人の話を聞いてると「おろしますか?」って聞かれるのかと思ったら、「おめでとうございます」と言われたので、気が抜けた。悪阻も全然なく妊娠5ヶ月まで働いていた。私はおばかだから、生まれる時に病院に行けばいいやくらいに思っていたんだけど、知人に注意されて、慌てて生まれる2ヶ月前くらいに病院に行った。その時のエコーで子供が3人というのがわかって。正直すごくショックを受けて、旦那になんて話したらいいかなって辛い気持ちで家に帰ってきた。あ、別れた旦那は私より3つ下の軽度の障害者。障害者手帳が5級だったかな。手がそんなに器用じゃないのと、言語障害。で、私の親にも親戚にも反対されたんだけど、最終的にどうにか産むことになった。ある日、定期検診の帰りにお腹が痛くなって急遽入院したんだけど、その時に生まれた。順番は長男、長女、次男。

 当時板橋に住んでたんだけど、板橋のワーカーさんが子育て経験のあるベテランで、その当時の制度でホームヘルパーさんとは別に保健師さんを派遣してくれたり、助産師さんも定期的に来てくれたりして、周りの人に助けてもらったおかげでなんとかなった。うちの子も私も周りの人にはすごく恵まれたかなと。

 でも、それまでお腹を抱えながらも毎日のように障害者運動のデモや集会に出歩いていたのが、子供が生まれた途端にどこも出かけられなくなって、産後鬱みたいになった。最初の1年くらいは「何やってんだろう私は」とモヤモヤした気持ちと、ひたすらゆっくり寝てみたいって気持ちの2つだけが自分の中にあって。


介助者募集のうたい文句は、「三つ子見に来ませんか?」

 子供が半年経った時に、本当なら親が働いてないと保育園には入れないけど、障害者の場合は子供を十分に見られないという理由をつけて保育園に入れてもらうことができて、すごいラッキーだった。子供3人だったので生保を取れたこともあって、仕事を辞めて、子供と私達と介助者とヘルパーさんとで面倒を見てたけど、なんせ三つ子なんでそれでもちょっと手が足りなかった。だから「三つ子見に来ませんか?」って書いたビラをまいて毎週介助者を探してたら、思いがけなく結構いろんな人が手伝いに来てくれて。

 子供が小学校に上がる2年前、ちょうど友達が柏市の石けんの工場で働いていたので、うちの亭主も使ってよって言って、旦那を単身赴任させちゃった。で、子供が小学校に上がるのを境に旦那と合流しようということで、私達も柏に引っ越した。だから、介助に入ってもらったのは小学校1年の1学期くらいまでかな。

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自分達の力で生きていけるように、と踏ん張った子育て

 保育園では、お友達に「お前のお母ちゃんおばけ」とか言われて、うちの長男は言い返せないから殴っちゃったことがあった。その時は、「私のために殴ってくれたんだ」って、正直嬉しい気持ちと、このままじゃまずいなというのがあって。だから、「お母ちゃんは病気だからって説明しなさい」って、4つ5つの子に言って聞かせた。でも小学校に上がった時にもやっぱり周りから「なんで病院に行って治さないんだ」とか言われて、泣いて帰ってきて。子供にとっては病気は治るって感覚なんだなって発見があったけど、その時は怒りというよりは、これからこの子達はそういう言葉と戦いながら育っていかなきゃいけないんだなって切なさの方が強かった。その時は、ベテランの先生が子供達に話をして納得させてくれたおかげで、小学校を無事に卒業できたけど。子供達は授業参観は来ないでくれとかも一度も言わなかったし、同じ学年で3人いるから、1人で飲み込むのとは違って心強かったんじゃないかなと。

 少し大きくなってからは毎日バトル。きょうだいげんかがすごくって家中の壁に穴が空いた。でも、「お前達頼むから自分達の力で生きていけるようになってもらわないと、母ちゃん50になったら死ぬよ。」ってことを、中学の頃から何かにつけて言ってたんで、高校が終わった時に、それぞれが就職して巣立っていった。そういうあれやこれやで全く至らない親だったんだけど、結果的には3人の子供に結構助けられたかなって。


”盆暮れ家族”の距離感が心地良い

 私は私で、彼らが20歳になる1年くらい前から急に体が動かなくなって。群馬に行ってからは8年間子育てしながら一般企業で8時~5時で働いてたんだけど、8年経ったら体がボロボロで。その頃から電動車椅子に乗るようになったんだけど、車社会の群馬ではなかなか辛いものがあって。だから子供が20才になった時に、「これからさらに動かなくなっていく体を群馬で閉じこもって生きていくのは辛いから、お母さんは越谷に行きたいと思う。ついては、お父さんとも離婚して1人で行く。お前達どう思う?」って聞いたら、うちの子達はすごくあっさりと「いいんじゃない?好きにしたら」って。だから、すごく軽いノリで越谷に越してきた。もうここ10年くらいは、子供達とはだいたいはお盆と正月に集まるだけ。「盆暮れ家族」と私は言ってる。

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