家を出たところですが 2023.1.11 すいごごカフェ 松沢隆行さん【前編】

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小さい頃から苦手だった人間関係

 昭和49年の1月15日生まれ。あと4日で48歳。生まれたのは越谷市砂原。水上公園の近く。兄弟は5人で私は4番目。家族は誰も家を出ずに、今もみんな一緒に暮らしてる。保育園、小学校、中学校と地元の学校に行った。ちっちゃい頃も活発的じゃなかったから引きこもった状態が多かった。学校行った時には友達と遊んだりもしてたり、楽しんでたけど。嫌なことと言えばいじめはされたことがあって、休んだり、本屋さんに行ってぶらぶらしたりもしたけど、それでも義務教育だから小学校も中学校も卒業はできた。

 その後にハローワークに行ったらY工業という会社を勧められて、マンションとかの重たいドアの枠を、機械で曲げる仕事をやってた。でも1年くらいしか勤まらなくて。社長や工場長とかみんないい人だったんだけど、悪口を言う同僚がいて人間関係が嫌になっちゃって。そしたら怪我すれば休めるんじゃないかって気持ちになって、自分で自分の足をバットで殴って折って入院して、そのまま辞めちゃった。

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友達との遊びに助けられた引きこもり期間

 辞めてからは家で引きこもった。テレビを見たり、寝たりしてた。その時から身体が固まるってことも始まった。固まっちゃうと動けなくなっちゃうんだけど、病気じゃないから病院でも治せないって言われてる。何回か声をかけられれば動けるんだけど。1人になって解放されたというか、誰も見てないなと思うと固まる。トイレの中だったら誰も見てないから特に多い。

 引きこもりがよくないとは思ってたし、お金がないと困るなと思ったけど、家から出るのが億劫で。山下さんが迎えに来てくれたら出かけたこともあったけど。でも友達とは、夜によくトイレに泊まって過ごしてた。健康福祉村とか、総合体育館とか、仲の良かった友達と3人ぐらいでトイレの中に入って、朝まで寝たりして。お金がなくて、そこに泊まる方が安上がりだから。そういう遊びも楽しんでましたねぇ。家族には仕事しなきゃだめだとかよく言われてたけど、お小遣いは障害年金でどうにかしてた。


仕事をしたくて試行錯誤する日々

 でも20才の時に、やっぱり仕事しないとこれからの人生ダメかなと思って、ハローワークに行った。パンが好きだったから、パンを作る仕事に就こうと思って。でも、ある会社の面接を受けられるかなと思ったら、障害者だってことがばれてだめになった。それで浦和の職業訓練センターを紹介してもらって、そこに併設しているワークトレーニング社っていうところで、障害者が就職できるための訓練をやった。でも、そこでも休んだり遅れたりしてたから、卒業はできたけど身にならなかったみたいで。次に、しらこばと職業センターにも入ったけど、そこも辞めちゃった。それはもう30過ぎてたかな。

 それで今度は就労センター(当時は越谷ハローワークの3F)に行ったら、当時所長だった山下さんがいて。相談したらわらじを教えてもらって、関わることになって。世一緒もずっとは続かなかったけど、何回か通ってきてた。山下さんがやってる絵日記の旅とか手話会とか、照和さんがやってるハッスル会には何回か参加した。辻さんの選挙も手伝ったりして。その後はずっと家にいることが多かった。

 ちっちゃい頃に楽しかったことは、家族と仲良かったことかな。お父さんとも仲良かったし。大きくなってからはお兄さんとけんかが多くなった。その後は、私も未だに無視しているけど。もう1人のお兄さんともあんまり話さない。でも、家族が楽しくないってわけじゃない。今もお姉さんと妹とはよく話すし、お母さんに何か言われたらやってあげたりするし。お父さんも口には出さないけど、少しは心配してくれてるみたい。そんなにひどく殴り合いするとかのケンカはなくなったし。でも、言っても無理だと諦められちゃってるから、家族も「トイレから早く出なさい」とかは言わなくなっちゃった。

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後編→https://room-yellow.seesaa.net/article/499777489.html

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