私の小さい頃から今まで 2022.12.7 すいごごカフェ 吉田ももさん(MIN 考える会)
特別扱いの優しさは感じても、やっぱり普通学校に行けてよかった
私は生まれつき脳性マヒ。車椅子で生活してる。幼稚園から高校まで普通学校に通った。親は、病院から「この子は普通学校に行った方が伸びる」って言われたらしくて。あと、他の子と同じように過ごさせたいって思いが親にあったから、学校や校長とか教育委員会のところに行ったりして交渉してくれた。それで、お母さんが一緒というのが条件で地元の学校に行けることになったので、毎日お母さんと一緒に通ってた。お母さんは大変だったと思う。でも、体育はいつも見学。クラスメートや先生は基本優しかったけど、今思えば特別扱いの優しさだった。助かった面もあるけど、「障害があるから手伝ってあげてね」って言われてて、なんだろなって感じがあった。小学校の頃の印象に残ってることは、遠足のバスに乗せてもらえなかったこと。お母さんが車で送ってくれたけど、なんでかはわからない。なんでですかね。いじめとかはなかったけど、たまに誰かと遊びたいなと思っても、みんな塾とか行ってて、高学年になると遊ぶ子がいなかった。
高校は大宮中央高校。高校は本当は死ぬほど大変だった。役員だった時もあった。ヤンキーっぽい人が優しかったり、いろんな人がいた。
でもやっぱり、分けられなかったからよかったと思う。地元の普通の学校に行けた。同級生の子がいっぱいいるから。今もスーパーとかに行くと誰か知ってる人がいたら手伝ってくれる。
書道で個展を開いています
9歳から書道を始めて、今はだいたい隔年で個展の開催をしてる。来年10月に個展をやる。最寄りは東大宮で、そこからバス。丸ヶ崎の交差点の近くに古民家を改装した温々(ぬくぬく)ってギャラリーで。書道は、今は肩がね。少し回復してきたけど。1993年には神亀酒造のラベルも手がけた。お酒は好き。コップ1杯毎日晩酌してる。
父親は私が1歳の時に病気で亡くなったんだけど。だから、小さい時から20歳まで母親の実家に祖母とか従姉妹とかと暮らしてた。その後22歳の時にお母さんと一緒に独立した。その頃は、結婚の予定はなかったから。今は、旦那と母親と猫1匹と一緒に暮らしてる。母はコロナの影響で持病が見つかって、家のことはやってるけど、時間があると寝たりしてる。横井さん(ご主人)とは大人になってから、障害者のキャンプで出会った。彼はキャンプリーダーで。
自分の身体と、ヘルパーさんとの付き合い方に悩む日々
最近は、8月にコロナになって、その後遺症で障害が重くなった感じがする。最初具合が悪いのはワクチンの後遺症だと思ってたら、ヘルパーさんがコロナにかかってて、それがうつっちゃったみたいで。
私の生活は、今はヘルパーさんがほぼ毎日入ってる。主におばさん達年配者が多いけど、介助者がいっぱい家にいるから、主人と2人になりたくてもなれなかったり、逆にみんなならどうしてるのって思う。私が料理の買い出しに行って、ヘルパーさんにああしてこうしてって作ってほしいものを頼むんだけど、その通りにならないこともあるから、そういうところの妥協はある。味付けが辛すぎたりね。
9年前にベッドの移乗時にヘルパーさんが失敗してベッドから落ちて、足を痛めてしまった。それで、今も整形外科に行ってる。リハビリというか、電気マッサージをしてもらいに。あとは、週に1回夢テラスの後に白岡のデイサービスに行ってたんだけど、そこの送迎中にむちうちになって、それもまた障害が重くなって。整形まで通ったりして、なんとか暮らしてる。
【※夢テラス…障害者が日替わりで店長を務めてきた、リサイクルショップ(さいたま市見沼区)。1994年のオープンから28年続いたが、新型コロナウイルスの影響やボランティアの高齢化などが重なり、去年2022年3月末に閉店。】
質疑応答
普通学級はスピードが速くて…
黒田:当時、学校の中で特殊学級というのはなかったんですか?
吉田:ありません。でも、勉強は速くて大変だったから、特殊学級があると便利だったかもしれない科目もあった。スマホとかないし。速さが間に合わなくて、時間切れになる。
山下:“風の色”っていうミニコミ誌をずっと出してるでしょ?それに関わってる人ってどんな人?
吉田:友達とか、病院の先生とか、父親の友達とか。
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