鍛冶屋が生きてきた越谷 2022.7.6 すいごごカフェ 森田貞次さん(太郎鍛冶屋)【前編】

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明治16年生まれのおじいさんが鍛冶屋を継いだことから始まった

 私は越谷で生まれ育って、今も越谷で鍛冶屋の5代目をしている。鍛冶屋は江戸の中期から始まったというんだけど、うちの家系ではない人が1代目2代目をやっていて、3代目でうちのおじいさんが継いだ。その後は子供、孫の私で続いている。

 うちのおじいさんは確か明治16年生まれ。俺が生まれる前に死んじゃってたから会ったことはないんだけど。百姓の長男に生まれたけど、母親が病死して、その後後妻に子供が生まれたからって、おじいさんが10いくつの時に越谷の田老鍛冶屋に小僧に出されたそう。鍛冶屋の小僧というのは過酷で、朝3時頃起きて、親方が来るまでに炭を起こして刃物を作れるようにしておかなきゃいけない。でも辛くて帰ろうと思ったって後妻がいるから帰れなくて。で、なんとか勤め上げて、最後は親方に「自分ちの倅よりお前の方がうんと腕がいいから田老鍛冶屋継いでくれないか」って言われて田老鍛冶屋になったと。最初は大沢駅の近くで始めたそう。大沢って、今の北越谷。その頃は女郎街があった大沢が一番栄えてて、東武線ができた時も、駅は西新井、草加の次が大沢だった。


父から伝え聞いた、越谷昔話

 昔はトラクターもないし、貧乏な百姓は自分で鍬と万能(まんのう)で耕すしかなかったんだけど、ちょっとしたお金持ちのお百姓は牛と馬に引かせてた。で、鍛冶屋は馬耕で使う刃先を作ったり修理したりしていた。すごいお金もらえるから、エンジンの耕運機が出てくるまでは本当に楽だったって。昔の鍛冶屋というのは、ふいごの前に座ってずっと刃物や農機具を作っていて、農家の人間が何人もできるのを待ってるの。まだ小さかった親父がそこで出たいろんな話を聞いてて、覚えてることを私に聞かせてくれた。

 小学校3年くらいの時かな、越谷が町になってしばらく経って、市になった頃からだいぶ覚えてる。でも、10カ村集まっても5万人はいなくて48000人とかそのあたり。だから、町の中歩くとみんな親戚みたいな町だった。ここいらは本当に数えるくらいしか家がなくて、夜は真っ暗だった。

 戦前の話もよく親父がしてたけど、特高警察を知ってる人はいます?思想犯を取り締まる警察。小作料がいくらかは言っちゃいけない決まりなんだけど、鍛冶屋が集まってつい言っちゃった時は、すぐその晩に特高が来るんだって。昔は人権なんて関係なくて、警察にしょっぴかれると「お前は“赤”だろ!」って竹刀でぶっとばされるそう。昔は共産主義者のことを“赤”って言ってて、共産党員がいたら言い訳は関係なくみんなブチ込まれた。大地主の家には1メートル四方くらいのポリスボックスがあって、お巡りさんが常駐してるところもあったんだって。小作達が文句言ったり何か不穏な動きがあれば、サーベル向けて追っ払ってくれると。それに昔は高額納税者は自分で拳銃を持ってたんだって。小作人が小作料のことでうるさく言うと撃つ。それで殺されても、あいつは赤だからってことで国は納得しちゃうんだって。今の世の中本当にいいと思う。いろんな差別はあるけど殺されはしないから。

 うちのおじいさんは兵隊にもとられたそう。その頃は徴兵制で。体も大きかったし力もあったから甲種合格で麻布連隊に入れられた。テレビとか見ると軍隊は大変だったって言うでしょ。でもうちのおじいさんは言われたことだけやればちゃんとご飯食べられて、温かい布団で寝られるんだから、こんないいとこないって思ったって。

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後編→https://room-yellow.seesaa.net/article/500084158.html

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