大袋ひとり暮らし17年 2022.7.13 すいごごカフェ 友の由紀恵さん(世一緒金曜日当番)
施設で育ってきたから、高校卒業後は兄弟と暮らしたかった
昭和46年12月8日、東京の杉並区の病院で生まれた。私は脳性小児マヒだったから、小さい頃から療護園に入っていて、外泊の時だけ実家に帰る生活をしていた。幼稚園から小学校3年までは東村山の養護学校、小学校4年から中学校3年までは板橋区にある整肢療護園に行った。4年生の時から始まった養護学校の訓練が一番きつくて、手や足を思いっきり伸ばしたりするんだけど、苦痛でしょうがなかった。でも訓練の甲斐もあって、高校2年まで歩いていたんだけど、右足の踝にヒビが入ってしまったのがきっかけで車椅子になった。
高校3年からは宮代養護学校に移る予定になっていた。でも高校2年の時に母が交通事故で亡くなり、あと1年間だけだから養護学校でお願いって兄貴に言われ、養護学校で卒業式を迎えた。高校卒業後は上尾のリハセンに行く予定になっていたけど、今度は私が「3年間だけ家にいさせてほしい」というわがままを言った。兄貴も弟も他の児童施設にいて、お互い実家で一緒に暮らしたことがなかったから。当時私は手動の車椅子で、家の中では自分で動いてたけど、2階に上がるのは兄弟がやってくれた。出かけられなかったし、一緒なのは朝と夜だけだったけど、やっぱり兄弟と一緒に家にいるっていうのは楽しかったなというのはある。
介助者に助けられながら、一人暮らしは17年目に
先にわらじに入っていた同級生の鈴木まゆさんが「一緒に参加しない?」って誘ってくれたことが、わらじに入るきっかけになった。その後、故・吉田昌弘さんの後にオエヴィスに入居する人を探しているって話が回ってきて、私が入ることになった。そこからもんてんに引っ越しをしてからは10年くらいいた。最初はこのままここにいられたらと思ってたんだけど、職員の人から「新しい人を入れたいから、一緒にアパートを探してあげるから出る準備をしよう」って言われて。やっと見つかって、33歳の時から大袋のアパートで一人暮らしをして、なんとか住み続けてもう17年になる。結構いるなと。
家の中では車椅子を降りて、ずりばいで動いている。うちのトイレに挟まれたことが何回かあって。なので、今は挟まれないように両側に台を置いてもらって、なんとかできている状態。
介助はほとんど県立大の方。食事と入浴の時に入ってくれて、9時に私を布団に寝かすまでやってくれる。泊まりは入れてない。介助スケジュールは一応学生さん同士で調整してくれてるんだけど、どうしても空いちゃうって時はわら細工の方に話をする。基本的に外出の時は介助の人はいるけど、外出しなければ一人でいる。
月曜はあいライフっていう事業所の方が7時半~9時で、送り出しまでやってもらっている。その後はべしみに行って、トイレ等は活動の場にいる人に頼んだりしてる。夜はべしみを出た後に学生と待ち合わせて、その日食べる材料を買って家に戻る。夕飯作りとお風呂に入れてもらって、寝かせてもらう。火水木の朝はひろみさん(旧姓村田さん)に入ってもらってる。昼間はべしみで、夜は学生さんの時もあるし、夕飯を作り置きしてもらうこともある。金曜の朝はニチイ大袋の事業所の方が入ってくれる。金曜のお昼は内野さんが作って持ってきてくれる。その後は世一緒の当番で。夜は学生が入れば一緒に買い物に行って作ってもらっている。土曜の夕方にはあいライフの方が夕飯作りと片付けで入ってくれる。日曜は朝も夜もわら細工の人が入ってくれる。
質疑応答
一人暮らしは、施設では経験できないことばかり
野島:友野さんもだんだん動けなくなってきてるから、アパートも古いし、家に電動入れて車椅子生活したらどうかなあって話をちらっと聞いたんだけど、そのへんどうなの?引っ越したいなあとか。
友野:できたらあの借家の方が本当はいい。でも、これからどうなるっていうかは…築50年だから。たぶん電動は入らないけど、今のところ考えたことない。
日吉:一人暮らしが始まって、何か驚いたこととか、これは想像と違ってたとかある?
友野:東日本大震災の時は計画停電になったので、介助に来てもらっても介助はほとんどできないっていうのに驚いた。あとは、どこのお店に買い物に行っても品切れでお店の人に謝られるとか。施設に入ってたら計画停電とか地震とか竜巻とか経験できないことばっかり。
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