子どもだった私との対話 2022.8.3 すいごごカフェ 古迫千晶さん(文教大学生(現在は卒業生))

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音楽に活路を見出しながらも、父との関係が断絶していった中高時代

 趣味は音楽鑑賞と楽器。文教大学の人間科学部人間科学科の4年生。2000年生まれで、鶴ヶ島市に住んでたけど、3、4歳の時に鴻巣市に引っ越した。中学校に入学すると、ささいなきっかけから人の目を気にするようになり、中1の夏くらいから結構塞ぎ込みがちになった。母が中高で吹奏楽をやってた影響で、私も吹奏楽部に入って、母がやってたクラリネットを選んだ。少人数だったけど、それが結構楽しかった。3年では部長に選ばれて、これが人の前に立つ初めての経験だった。でも人をまとめるのが大変で、結構ストレスに感じてた。

 中学くらいの時、父がうつ病みたいになっちゃって、それまで何十年も勤めてた建設系の会社を辞めた。母がその頃ちょうど介護の仕事を始めたので、その影響で父も介護の仕事をやり始めたんだけど、まともに研修もしない会社だったらしく、父もストレスがたまってしんどそうだった。父はだいぶハイテンションな感じの時もあれば沈み込んでる時もあって、今思うと双極性障害だったのかな。でも、この頃は家族に怒鳴り散らしていたから腹立たしく思ってたし、父に対する信用度が全くと言っていいほどなくなっていった。

 中3の時は、高校受験のストレスと反抗期も重なって私が不安定だった。その時期を乗り越えて2016年に桶川高校に入学。落ち着いてのんびり過ごした。また吹奏楽部に入ったけど、お盆休み以外は1日練習したり、部活が全てみたいな高校生活だった。3年生の時にはまたクラリネットパートのリーダーを任されて、大変なことや辛いこともあったけど、社会のルールや上下関係とかマナーみたいなものを学べて、いい経験ができたと思う。

 この頃から父は結構家にいないことが増えたし、よくわからない帽子とかネックレスを急につけ始めてなんだなんだって思った記憶がある。帰ってきてからも家族とはほとんど話さない状況で、気まずかった。母とはすごいケンカしてたけど、たまに飛び火が来ても、どうでもいっか~って無気力になってた気がする。


生きづらさを感じてる人の役に立つ仕事がしたい

 高校卒業後は、春日部にあるおばあちゃんちに母と兄と私も移り住んだ。それから父がどうなったのか全く知らないけど、会いたいとか連絡取りたいとは思わない。大学で心理や福祉を学んで知識を得た今では、病気のせいで仕事を辞めなきゃいけなかったり、父にもいろんなストレスや葛藤や生きづらさがあったのかなと思う。家族も父に寄り添ってたかと言われれば、あんまり深く関わろうとしてなかったような気がするし。だから私にも何かできることがあったのかなと思ったりもするんだけど…過ぎちゃったことだし。っていう感じ。

 高校まではそんな経験をしてきたから、生きづらさを感じてる人の役に少しでも立てたらいいなと、福祉の道に進むことに決めた。母が高齢分野の訪問介護をしていて、母みたいに人の役に立つ仕事がしたいという思いもあった。それで心理も福祉も学べる文教大学の人間科学部に入学した。


障害者としてではなく、一人の人として関わることが大事

 2、3年生の時にコロナで授業がオンラインになったので、新しいことでも始めようかと思っていた時、たまたまべしみの募集を目にして応募した。去年は週1~2くらいでボランティアで通った。食事介助、トイレ介助から始まり、今では世一緒でのバイト、かっぽの店番とか、いろいろ関わらせてもらってる。車椅子を押すことから全部初めてだったんだけど、意外とスッとできたので何事もやってみるもんなんだなと思った。それに、身体や知的の障害って考えるんじゃなくて、シンプルに○○さんって1人の人として関わって、その人の人柄とか考え方を知ろうとすることが大事だなと思った。

 昔に比べて、とりあえずやってみようって考えられるようになった気がするし、考え方や育ってきた環境が全然違う人が関わり合ってるのが面白いなって、日々思う。それに、わらじの方達みたいに言いたいことを言えるっていいなあと思ったりする。友達や家族でさえズバズバ言い合える経験をしてこなかったので。わらじでボランティアをしてなかったら、こんないろんな経験はできなかっただろうし、すごいなと思う。世間知らずもいいとこで、何も知らない学生の私に、「こんなことも知らないの?」って言いながら教えていただけたらいいなって思う。平凡な学生の話を聞いていただいて、ありがとうございました。

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