私と人生 けがと入院 2022.9.20 すいごごカフェ 水島茂治さん(世一緒障害者スタッフ)

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5人の姉と、両親との間の確執

 神奈川県鎌倉市で生まれた。小学4年生の運動会では棒倒しの競技があって、当時の校長先生が元海軍の士官学校の人だったので、海軍方式でお互いボコボコになるまでやらされた。そしたら棒の下敷きになって、打撲から軽い腹膜炎を起こして、人生で初めての入院をした…というのが小学校の思い出。

 昔うちは八百屋をやってた。中学校の時の夏休みと冬休みはアルバイトとして親父の手伝いをさせられたけど、自転車でリヤカーを引っ張るのがきつくて嫌だった。それに仕入れが大変だし、値段を決める基準があるけど、自分は決めることができなかった。だから、中学3年の終わり頃に「卒業後どうするんだ?」と聞かれたけど、一つ返事で「継がない。商人は大変だから嫌いだ。」と言った。そしたら「中学校で義務教育が終わったら出て行け。お前に食わせる飯はない。」と言われて。そこから両親とも姉達とも6年くらい会わなかった。うちはきょうだいが6人いるんだけど、僕1人だけ男で、あとは全部女。女系家族だから男は何にも言えないし、合わないし。


大火傷した事故の後は自衛隊へ

 その後、知ってる人に頼んで自動車の板金の仕事をさせてもらうことになり、日産の下請け工場で働いた。でも16、17歳くらいの時に自分の不始末で大けがをした。お尻の方から膝下まで体の1/3に火傷をして、重症でもうだめかもしれないって親は言われたそう。無事に手術が終わって今なんとかなってるけど。それで、「給料は出せないけどリハビリやりながら小間使いをしろ。飯と風呂は入らせる」って親方が言ってくれて、治るまでの7~8年は下働きとして面倒見てもらった。

 それでいくらか膝の曲がりもよくなり、治ってきたかなという時に、たまたま知り合いのおじちゃんに自衛隊はどうだと勧められて、北海道の陸上自衛隊に入ることにした。当時21歳で元気だった。その時には両親はもういないものだと思って自分の中では切っちゃったんだけど、自衛隊に入って一番喜んでたのは親父だったみたい。自衛隊には8年いて、楽しかったけどきつかった。頭を押しつけられて顔をこすられるようなことが実際あったしね。途中で脱走する人もいるくらい厳しい時はめちゃくちゃ厳しいけど、男の世界の中の優しさもあった。

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三途の川で父と兄に出会って

 そこから今度は千葉県の協和警備保障という警備会社の正社員になった。西千葉から飯田橋の方に通ってた。解体工事現場やビルの夜間警備とか、万引きや窃盗がないかカメラで監視する仕事を23年間やってた。建設現場の警備ではランプの入れ替えもするし、交通誘導もやった。交通誘導警備資格の1級も取った。でも、15年くらいは正社員だったけど、歳を取るとだんだん仕事場も限られてきて、ビルの現場とかにしか回されなくなって。

 そんな時、平成18年に飯田橋の2つ手前のお茶の水駅で事故に遭った。電車のドアが開いた時にラッシュアワーで圧されて体を支えきれなくて、頭をガーン!とやられて目の前が真っ暗になった。先生からは「あと1日昏睡状態だったら三途の川を渡ってたよ」と言われた。でも実際に三途の川を見た。すごく綺麗だったから渡ろうとしたんだけど、父と兄が2人いて、兄が「来るな、入るな」って石を投げてくる。兄貴は小4の時、親父は85歳で亡くなってるんだけど。そこで暴れてるうちに目が覚めたみたい。この件では3回くらい手術した。

 ということで、警備会社に23年勤めてたけど、最後はもうお前なんていらないって形でリストラ。いろんな手当もなくなるから、ちょっと悲しかったけどね。事故でこういう体(マヒ)にならなかったら65、66歳までやってたんじゃないかな。事故の後は記憶が飛んじゃって知的障害になっちゃったから、3番目の姉ちゃんが市役所での手続きとかを全部やってくれて。今でも、お金の面、役所の面、生活の面まで全部やってもらってる。それで、会社もクビになったし、住むところもないから越谷に来て。

 平成18年から発作とか抑える薬を服んでるけど、薬が減って良くはなってる。今まで何回も内臓や肝臓の手術をしたけど、つい最近はヘルニアをやった。8月に採血で再検査を受けたら腎臓が弱ってるとも出た。もしこれ以上悪くなったら、今の病院から腎臓の専門医がいる病院に行くことも決まってる。
 
 自分の人生は1回しかないので、やる時には一生懸命やる、やらない時はやらないって自分の信念でやってきた。また何かあったら報告したいと思ってる。

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