駐車場の隅 花を育てて 2022.11.2 すいごごカフェ 癸生川新一さん(世一緒障害者スタッフ)【前編】
不仲な両親を見て育った子供時代
昭和28年生まれ。生まれは荒川区。5人姉弟の3番目。うちの親父は牛の革のなめし屋さんだった。なめしって、動物の皮を革に加工する技術のこと。保育園から中学まではずっと三ノ輪で育った。
中学2年までは普通学級だったんだけど、やっぱり勉強はできなかった。親父が酒飲んで暴れるから勉強ができる状態じゃなくて、全然ついていけなかった。友達というのもほとんどいなかったし、だからもうほっつき歩いて遊んでたというか。うろうろしてお腹空いたら帰ってきてたって感じ。
アパートに住んでたんだけど、中2の時に両親がケンカして酒飲んで暴れるんで、離婚まではいかなかったけど、母が家出したんで姉達が警察に行っちゃって、それから近くの児童相談所に1ヶ月預けられた。そこで検討されて、中学生の途中で板橋区にあるマハヤナ学園撫子園という施設に入り、そこから志村第四中に転校した。私は弟と一緒だった。
中学校に入ってまともになったのは、マハヤナ学園に入ってから。みんな寮に入っていて、お坊ちゃんが来るお金持ちの学校だった。その学園の園長先生の弟がお坊さんだったから、でっかい銅像が真ん中にあるような本堂に連れられたことがある。朝と晩にみんなで礼拝堂でお経を唱えたりね。信者達に送る用の本を刷ってホチキスでとめたり新聞を折るとかって仕事を日曜日にさせられてた。よくわかんなかったけど、宗教団体だったみたい。あとは、勉強勉強で厳しくて。学生のボランティアの人が1人1人ついて、8時から1時間勉強しなきゃいけなくて。それで一応少しはできるようになったんだけど。一般のと違うよね、学生のボランティアがつくとか。でもそれでなんとか卒業できたんで。
2~3年で職は変えても、仕事はしたい
昭和43年、中学卒業して施設からは出たけど、どこ勤めていいかわかんなくて。だから、週に3日くらいアルバイトをしていた小さいメッキ工場に住み込みで勤めることにした。他に障害者の人はいない職場で、とりあえず普通の人として。給料も普通だったし、残業もあった。元々学校が紹介してくれたアルバイト先だったから、卒業してからも3ヶ月に1回くらい区役所から職員の人がたまに様子を見に来てた。いろいろ説明されるんだけど、よくわかんなかった。仕事では簡単なやつをやらしてもらったんで、なんとか。でも47年で辞めちゃって。
今度は自分で探さないといけなかった。うちの兄貴が革の仕事をやってて、時計盤につける革バンドの社長さんと顔なじみだったので、その紹介で時計盤のバイトに入った。ここでも障害者としてじゃなく普通で入った。給料は1ヶ月で3万で、良かった。でもそこも3年間で辞めちゃって、ぷらぷらしてた。その頃は親父と一緒に暮らしてたけど、途中から北千住のアパートを借りて一人暮らしした。家賃は自分の稼ぎでやってたけど、たまに実家に帰って親父から2、3万お小遣いもらって、食べたり遊んでだりしてた。
一番よかったのは、昭和49~52年の3年間くらいいた西新井のイマイというハンドバッグ屋さん。大きい会社だった。ハローワークの職員に教わって履歴書は自分で書いて、それで入った。私は教え込まれたけど計算ができないから、なかなか覚えられなくて。工場長が型作りとか全部作って、私はほとんど糊つけで終わってた。そこが亀戸の方に引っ越しちゃうというので、まともな仕事できないから辞めますって言って。その時は退職金結構良かった。10何万。仕事はできなかったけど、やっぱり普通で入ったんで。給料も結構もらえてた。
今度はまた早乙女っていう小さなハンドバッグ屋さんに勤めたけど、そこも52年に行って54年で辞めちゃって。よくはしてくれたけど、やっぱり嫌になっちゃった。2年か3年やったら飽きちゃう。でも今まで首にされたってことはない。一応逆らわないで、なんとかそれなりにやってるから。読み書きができなくて困ることもあったけど、一応簡単なひらがなは読めたし、簡単なかけ算もできたんで、それでなんとか乗り切った。それに、辞めても結構次が見つかるんだよね。
後編→https://room-yellow.seesaa.net/article/501216866.html
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