津軽三味線とともに 2023.3.22 すいごごカフェ 松尾晃司さん(せんげん台「世一緒」職員)【前編】
三味線のルーツとは
私は趣味で60歳から津軽三味線を始めて、もう10年経つ。でも、ルーツだとか詳しいことは何も知らなかったので、今日話をするために津軽三味線はどういうふうに発展していったのかとか、ネットで検索して資料を作ってきたんだけど、知ってるのと知らないとではこれから弾く時の音の音色が違うんじゃないかなと思うので、いい機会だったなと思っている。
津軽といえば、通常は青森県の津軽半島を思い浮かべるけど、半島だけでなしに、あそこらへん一帯のことを津軽地方と言う。私は40歳くらいの時に単身赴任で青森に2年程いたことがあって、懐かしく感じる。青森の中では津軽藩と南部藩が統治していたんだけど、津軽と南部は非常に文化が違う。どちらかというと津軽の方が公家さん、武士の社会。南部の方は土着の方。
三味線というのは元々は大陸の方から来たんだろうけど。琵琶法師が弾いてた琵琶とか、沖縄の三線とか、町の芸者さん達が弾いていた三味線がだんだんと北の方に行って、津軽三味線というものが作られた。津軽三味線は明治時代以降に完成したような文化。
津軽三味線を始めたのは仁太坊という人。どこで生まれてどこで死んだかも正確には記録が残っておらず、石碑があるだけ。そんな人が編み出した音楽。坊というのは目の不自由な門付けをやってた男性につけられる名前らしいんだけど、明治以降、その仁太坊って人が津軽三味線を作り始めて、その後いろんな流派ができてきた。沢田流、竹山流、小山流、髙橋流って流派がある。流派によって、同じ曲でも弾き方が若干違う。名取りだ、師範だなんて階級を取ろうと思うと、何十万、何百万というお金で流派から買ってくる感じになるので、どこかの流派に入ると習うにも非常にお金がかかる。
瞽女(ごぜ)の稼ぐ手立てだった三味線
目の不自由な方があちらこちらの農家を回って三味線を演奏し、お米やお金をもらって生計を立てていた、そういう旅芸人の人達が新潟の越後の方にいて、瞽女(ごぜ)と呼ばれていた。この瞽女さんは室町時代からいたとされるけど、農家の人はなかなか他所の情報を知ることができないし娯楽がないから、瞽女さんが回ってくると外の世界を知る良い機会になったみたい。目の見える人が1人入って、3~4人が1組になって、農家の辻々を渡って。置屋さんというか、面倒みてくれるところを中心に各地方を回ってた。車じゃなくて歩いて回るんで非常に大変な旅だったと思う。青森ではその人達は“門付け”という名前だったようだけど、「“こいど”(乞食の意。差別用語)の人がやる芸だ」などと言われて、なかなか細かい記録は残っていない。でも、昭和の30年代くらいまで長く続いてたみたい。そもそも三味線というのは五線譜みたいなものがなく、口伝えで受け継がれてきた。見て覚えるものだから文献が残らず、ルーツがなかなかわかりづらい。
なんで津軽三味線に思いがいったかというのは、青森に2年間単身赴任してたのも非常に大きいんだけど。でも一番は、髙橋竹山という有名な方の演奏を青森で生で聴いたから。彼は、有名になる前の若かりし頃は、病気で視力を失って、苦労して三味線を覚えて門付けをやってた方。その方から習った人が出てきて、津軽三味線というのが世に認められてきて今に至る。今は亡くなられて、女性の方が2代目でやってるんだけど。だから聴いた当時、それはもう感激で。それで私は青森から戻ってきてから、大宮にあるNHKのカルチャースクールで津軽三味線を始めた。竹山の生演奏を聞いたと言うと、三味線やってる人だったら、え~!って羨ましがる。
後編→https://room-yellow.seesaa.net/article/501860282.html
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