ピアスタッフの悩み 2023.3.9 すいごごカフェ 並木理さん(埼玉障害者自立生活協会事務局)

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暴力や破壊衝動を抑えられなかったニート時代

 1971年(昭和46年)、埼玉県所沢市で2人兄弟の次男として生まれた。高校に進学したあたりからちょっと不安定になった。その後、大学受験に失敗して一浪。東京の専門学校に入学して、日商簿記の2級や自動車免許を取った。卒業して、S商事に入社。簿記の資格を活かして経理部に入ったんだけど、9ヶ月しかもたず、アルバイト生活に逆戻りしてしまった。そこで人生で初めてコンビニのアルバイトを経験したけど、オーナーといろいろ衝突したり…多少の武勇伝もある。

 そこから今で言う引きこもりやニートの生活になった。親には「今は自分なりの勉強をして、30歳になったら働くんだ」と公言していた。でも、あまりにも俺が勉強ばっかりしてて働かなかったので、親と衝突もした。なんで俺の気持ちをわかってくれないんだって感じで、母親に水をかけたり、家の壁を壊したりして。本当はぶったり叩いたりしたいところを水をかけるくらいですませてる、ぐらいに思ってた。だから親が保健所と警察に協力依頼をして。警察が家に来た時、暴れて抵抗したら公務執行妨害で1回逮捕されちゃって、そのまま強制的に精神病院に入院になった。


記憶が朦朧とするような精神病院の入院を経て

 1998年からY病院の閉鎖病棟に6ヶ月入院した。裸を見られたりプライバシーもないような感じだったし、物やお金も盗られるような環境だった。でも、そこでは薬もたくさん飲んでいたし、電気ショックや注射の精神治療を受けたことで足元もおぼつかないくらい動けない状態になっていたので、何もわからない状態だった。退院した時も大半の記憶が思い出せなかったんだけど、そこから10年20年働きながら、デジャヴを繰り返しながら少しずつ思い出してきた感じ。

 退院してからは、週4日(途中から週5)、Y病院に併設されてるデイケアに通うようになり、その生活が3、4年続いた。この後、ちょうど西友の朝の品出しの短時間アルバイトに就労した。自分が精神障害者だということを隠して。結構続いたし、仕事中心にしながらデイケアにも通ってたんだけど、職場のマネージャーが休みを決めるようになって、自分で申請して病院の診察に行くことができなくなっちゃったので、そこを退職した。その後、また4時間の短時間アルバイトで蕎麦屋に勤めた。そこも障害者であることを隠して就労して、デイケアにも通いながらの仕事をしてた。でもだんだん慣れてくると、最初4時間契約だったのが8時間になり、水分補給も全然できなくなっちゃって。それで苦しくなってそこも辞めた。その後、2002年に精神障害者保健福祉手帳の2級の交付を受けた。以後、更新するたび手帳は2級になったり、良くなったので3級になったりを繰り返した。


「障害の軽い方が重い人の介助をしたっていい」の言葉に感動して

 2003年、ニチイ学館ホームヘルパー2級講座を受けた。この資格を取って仕事がしたいという強い思いがあった。だけど、1ヶ月か2ヶ月で取れとか言われてたらダメだったかもしれない。長い期間かけても大丈夫なカリキュラムがあったから、8ヶ月間かかって取れた。

 また、ちょうどその年に、現在も所属先であるとことこの家の代表の瀬井さんに父親が偶然出会い、「息子さんがホームヘルパー2級をお持ちだったら電話をかけてもらっていいですよ」って言葉をかけられて、後日私がとことこの家に電話して面接に行かせてもらうことになった。とことこの家は「障害のある人もない人も、地域で当たり前に」っていうのをスローガンにして設立されて活動してきた団体。「社会の在り方として、障害の軽い方が重い人の介助をしたっていい」と面接で瀬井さんが言った言葉に感動を覚えて、とことこの家でヘルパーとして働き始めた。

 最初はボランティアみたいな形で、実際にちゃんと働き始めたのは2004年1月から。仕事を始めた時は私は車の運転はしなかったので、主に徒歩での付き添いでも大丈夫な知的障害の人の外出介助みたいなのが多かった。そこから少しずつ少しずつ人より時間をかけて仕事を覚えていった。最初の1、2年は本当に仕事は少なかったけど、3年目くらいから他の人と同じくらい働くようになって。そうやって配慮してもらったりして。

 精神病院を退院した時には、薬は1日4回飲んでいた。自分は一貫して、薬を少なくしてくださいと言い続けてたけど、これ以上薬を少なくできませんって状態になるのには十何年かかった。今は朝と寝る前の1日2回で、リスパダール1錠、ルボックス2錠を服んでいる。今思えば、1日4回服んでた当時は自分は動けてる、大丈夫だって言ってたり思ってたと思うんだけど、今の状態からしたら格段に動けてなかったんじゃないかな。今は夜寝る前に精神の薬を飲んでるけど、僕の場合はそれで眠れる。20何年薬を飲んできてるから、まるっきり悪いものでもないなというのもわかってるので受け入れている。


質疑応答

日吉:並木さんにとって、ピアスタッフの悩みとはどういうものですか?
並木:結婚したいとか、ちっちゃい子を見るといいなぁと思ったりする。でも、みんなと同じくらい働けるようになってきても、やっぱり精神の人に対しては差別偏見があるから、結局いつも損してるなと思う。
 今は実家で親子3人で暮らしてるんだけど、今までY病院で関わってきた他の当事者からは「並木さんの両親が自分の親だったら、俺はもっと早く回復した。だから羨ましい」ってよく言われた。当事者の人が入院したり暴れたりすると逃げちゃう家族も多いみたいだけど、うちの親はずっと我慢してこらえて、俺を包み込むような感じだった。傷つくようなひどいことは言わなかったし。最近は自分の人生的なことも理解してきてくれているので、親との関係はすごい恵まれてると思う。だいぶ前だけど、両親にはありがとうってメッセージは伝えたこともある。その時はやっと言ったか~って反応だった。
 “地域で当たり前に”って言えるようになったのは、埼玉障害者自立生活協会事務局とかとことこの家で働き始めて、瀬井さんとか山下さんに出会って、考え方とか理念とか情熱とかを教えてもらって、そういう意味で俺の一部なんですよね。それに、他の地域の人と関われたから、こうやって人前でも話せるようになったと思ってるし。だから、各地域の運動や活動の仕事してる人とつながるっていうのは大事だなと。そこをわかってほしいなと思っていつも仕事してる。

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