サトウハチローと私 2022.12.14 すいごごカフェ 樋上秀さん(たそがれ世一緒管理人)

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戦後初のヒット曲を創り出した作詞家

 サトウハチローは詩人、童謡作詞家、作家。1903年に生まれた人で、本名も佐藤八郎という。片仮名でハチローって最後の棒を伸ばしているけど、どこかで似たような名前を見たことあると思ってる人はいませんか。そう、イチロー(鈴木一郎)という野球選手をみんな知ってると思う。イチローが日本にいた頃、オリックスの仰木監督がイチローとつけたと言われてるんだけど、たぶん監督はサトウハチローのことを思い出して、ブレイクするよということで片仮名にしたんだと思う。

 サトウハチローを知ってる人も知らない人も、春と秋によく聴くこの歌を聴けばわかると思う。それでは、歌います。「♪あかりをつけましょぼんぼりに~お花をあげましょ桃の花~(おひなさま)」「♪だ~れかさんが、だ~れがさんが、だ~れかさんが見―つけた、小さい秋、小さい秋見―つけた(小さい秋見つけた)」この歌を未だに聞くと思う。あと、毎年夏の終戦記念日のニュースとかでよく一緒に流れる「♪赤いリンゴに唇寄せて~黙って見ている青い空~(リンゴの唄)」。戦後はこの歌から始まったと言われている。今紹介した曲は全部サトウハチローが作詞したもの。サトウハチローは童謡もいっぱい書いたし、歌詞も提供して、今挙げた曲の他にも“かわいいかくれんぼ”とか、“悲しくてやりきれない”とか、たくさんの曲がある。

 終戦後のプロ野球では、打撃の神様と言われた川上、ホームランが魅力のスラッガー、そして大下って呼ばれてた子供達に大人気の選手達がいて。この2人は「赤いリンゴに唇寄せて、黙って見ている青い空」って歌詞が由来で、“青バットの大下、赤バットの川上哲治”とも呼ばれて、戦後のプロ野球の始まりの象徴になったと言われている。

 あと、サトウハチローはラジオで子供の番組を作ってて、声優さんの他に一般からも声優を募っていた。1955年くらいかな。山下さんのお母さんは元祖ステージママで、なんとサトウハチローの前で10歳くらいの山下さんがオーディションを受けたと。かなりいいところまで行ったけど落っこったという話があったそう。僕が詩を書く頃にはサトウハチローは亡くなってたので、山下さんが少しだけ羨ましかった。


詩を作ることでつながっていたサトウハチローと僕

 で、いっぱい童謡を作ったハチローだけど、日本の文学界の永遠の不良少年と言われてた。ただ、詩を書かせたらすごくうまくて、お母さんを題材にした詩を世界で一番多く作った詩人で、お母さんの詩を書かせたら、サトウハチローとはらみちをは二大巨頭だって言われてる。

 サトウハチローは、木曜手帖っていう詩の月刊誌を発行していて、彼の死後も友達達が引き継いでたんだけど。そこに樋上も、小学生から30歳くらいまで詩を投稿していた。でも、載ったのは1回だけ。25歳くらいの時に作った「小さくなった」って詩。わらじにバリバリ関わってた頃だけど、同時に詩もバリバリ書いてた。全部は思い出せないけど、「遊んでたブランコも小さくなりました。いえいえ、僕が大きくなったのです。公園の砂場も小さくなりました。いえいえ、僕が大きくなったのです。」これがたぶん3番くらいまで続くような表現の詩だったと思う。普通は1ページに3人くらい載せるところを2ページ分もらったんだけど、でもその同人誌に1回載っただけで、結局曲がつくことはなかった。曲がつかないと童謡とは言わなくて。それで、もう30歳くらいから木曜手帖より月刊わらじに書く方が多くなっていったもんで。

 サトウハチローはお母さんの詩を約1000くらい書いた。その中で、樋上が一番好きな詩を語って終わりにしたいと思う。「“かえらないものと知っていながら” かえらないものと知っていながら、時計と一緒に起きているお母さん。こたつ布団のとじ糸のあせた緑が、今夜も寒い」

質疑応答
日吉:昔、サトウハチローのことをテレビ見たんだけど、彼はかなり破天荒なんだけど、詩は繊細で優しくて、人生とのギャップが大きかった。“長崎の鐘”は昔父親が歌ってた気がする。この人の歌はいまだに童謡の番組とか見てると必ず出てくる。でも、“ひな祭り”がサトウハチローだったっていうのは驚いた。

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樋上さんの今までのすいごごカフェ
2022.3.16 叶夢亭後の越谷で
https://room-yellow.seesaa.net/article/202208article_1.html

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