地域・職場・人を耕す 2024.10.16すいごごカフェ 大塚眞盛さん(当法人代表理事)
養護学校の教員になって
79年度、養護学校義務化の年に県立川口養護学校の教員になった。それまでは草加市内の中学で数学教員をしていた。県立川口養護学校に就職したこと、東京都立八王子養護学校の研究授業に二回くらい行ったことは、私の生き方というか、畑作業もこの経験がなによりも原点になっている。
今はあまり聞かなくなったが、「発達保障論」という考え方があって、川口養護は発達保障論という論を実現させるための拠点校だった。新任の時はすごく科学的で教育しやすい理論だなと思った。私は最初小学年の低学年グループに入った。低学年を更に発達ごとに5段階分ける。川口養護は障害の重い子から採ろうというのが念頭にあって、まず席に座ることができない、授業は出来ないような子達だった。1、2分で出て行ってしまうから、出ないように鍵を閉めたり。その鍵を閉めることに関して、私と数人は職員会議で問題にした。
就学猶予の人達との出会い
中学部を希望して行ったら、なんと21歳の中学生が居た。20歳だという人は4人くらいいた。それまでは猶予にされていた子達だった。家にずっといて外に出なかったから、頭は大きいけど足がすごく遅くて、歩くのも精一杯だった。両親は良い人ですごく可愛がっていて、だからこそ外に出したがらなかった。私たちは養護学校義務化には反対していたけど、その人達は義務化がなかったら外に出なかったと思う。
あと、学区がすごく広かった。病気で発作のある子もいて、学校に行くとはいえ1時間半もバスに乗っていると疲れてしまう。弱くて病的な子どもこそ近くの学校に行くべきなのに、ぐるぐるぐるぐる回ってようやく学校に着く。今は地域と言いながら分ける様になって、特支もいっぱいあってという現状ですが。
せんげん台での取り組み
利用者の人に自分の意見、考え方を持ってもらいたいと思って、せんげん台ではいろいろな話をしている。B型などは職員主導で提示されたことを黙ってやるというイメージがあったが、職場参加をすすめる会では違うと感じ、利用者の考え方などを優先と思っている。地球温暖化はなぜ起こるのか、地震のメカニズム、栄養、フロイトの精神分析、欲望をできる限りコントロールできるようになりましょうという話をしたりとか。いろいろ知ることがその人の強さになると思う。その時に合ったテーマを見つけて、利用者の皆さんに考えてもらう、ということをしている。
よいしょ農園について
ジャガイモや枝豆やホウレンソウ、白菜、苺など、もう何種類も作った。何を作ろうかというのは利用者の皆さんにも相談して作って、時に調べたりして作っている。
結構採れたのがじゃがいも、ミニトマト。オクラは週二回しか畑に行かないのですごく大きく硬くなってしまったり。パプリカもやったけど赤と黄色とかにはならなかった。レモングラスもやった。枝豆も植えた、木が大きくなったけど全然実は付かなかった。借りているとこの畑の人も出来ず、プロでできないなら無理だと思った。
すいかは割と取れて、結構売れた。スイカの作り方についても利用者の人が調べてくれた。ジャガイモは茎が伸びて実になるが、太陽が当たったところにソラニンという毒素ができて、緑色になってしまうジャガイモがある。そのソラニンをできるだけ少なくする方法について利用者の人にも考えてもらい、土をたくさんかぶせる様にしたが、大きくなると出てきてしまった。しかし、植え方によってそれを少なくできるようになった。うねを作らず、溝を掘って植えて、周りの土をかけてあげると地上に出るイモの数が少なくなる。こういうのも、なぜそうなるのか、どうすれば減らせるか意見を出して、考えてもらった。
地域の人とつながってゆくこと
よいしょ農園をやる中では、自分達である程度管理できる部分があり、それを自主的にやっていくようになればいいと思っている。今年は職員が中心になる部分も多かったが、来年度は利用者がもっと中心になって畑作業をやってくれるようになるといいなと思う。自分達で管理、試行錯誤することが、やりがいとか生きがいになったり、地域の人の繋がりになることもあるんじゃないかなと思っています。利用者の方が考えをもってやっていければいいと思う。そういう中で自分達の根底になるものとかに気付ければと。
丘の上に川口養護学校を作る時、地域住民から反対があった。「うちの娘が襲われたら困る」など。できれば敷地が見えない様にと言われ、敷地のど真ん中に作ったから運動場が狭い、とか。飲み屋であの丘の上のバカ学校か、と言われたり。
すごく人懐っこい児童で、みんなと遊びたい、外に出て行きたいという子が多かったと思う。だからできるだけ地域の学校で、一緒にやっていくことが大事だと思った。
病気で体力のない子も来ていたから、年に1人、2人亡くなった、担任していた生徒で2人亡くなったことがあった。てんかん発作がひどい子が一人いて、ご飯食べながら呑み込む直前に発作が起きた。もう一人は頭にできものができていって、顔にもできて余命がわずかだった。亡くなると親の中で、「こういう子どもたちは生まれてこない方がよかった」という人もいた。それは、今も自信をもって否定する事が出来ない。ただそれが当時、すごく隠されていた。発作のある子も、もう一人の子も最初のうちは元気で、遊んだり。でもどんどん動けなくなってきた。
その子たちは地域でどんなふうに扱われていたんだろう、と思う。
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