職場‐地域-共に生きぬく 日吉孝子さん 2025年4月30日 すいごごカフェ 前編

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三つ子の介助付き子育てー日吉流

 三つ子とわかった時、学生介助者を入れて子育てをした。他の障害者たちからは、「そんなに介護が入れ替わり立ち替わりさと、子どもは落ち着かないんじゃないか」と言われた。でも、3人を相手にしてると、朝から晩まで忙しくて、そんなの聞いていられない。

 それまで活動で表に出ていることがほとんどだったので、子どもを産んでから、家に閉じ込められている感じだった。産後うつというんでしょうか。でも、それを日々助けてくれた学生とか、駅前のビラまきで来てくれた市民の方に来てもらうことで、そこで話をして発散できた。

 私は極端なところがあって、毎月1回、介護会議を開いていたが、学生からも子育てに関する批判もあり、辛いこともあった。でも、それから10年位後、当時の学生が、「自分が親になってみて、かあちゃんのあの時の気持ちがよくわかる。あの時は勝手なこと言っちゃったけど。」とか、話しに来たりした。いまだに細々と関係が続いている。

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企業就職

 専業主婦10年やった後、金が必要ということで、一般企業に就職をした。ハードルはいっぱいあったが、私はノウテンキなのか、就職できないと周りから言われても、就職できないと思ったことは一回もなかった。なに考えてたのか、自分でも呆れちゃうけど。
 最近福祉制度がいっぱいできてきて、就労A、就労B、就労移行など、細かく整備されている。いまだったら、周りも私自身も、「ぜったい一般企業で働く」とは思わなかったかも。一般企業で働く道が、昔より閉ざされたんじゃないかと感じる。制度が細分化してしまうのも、弊害がいっぱいあるなというのが、最近の感想。

 私の父が、私が子供の頃、小さな町工場をやっていた。その時に、遠い親戚から頼まれて知的障害の人を雇っていた。そういう、ほんとに人手が欲しいところに、私が小学部を過ごした都立光明養護学校の卒業生も就職して行った。ただ、みなさんがんばりすぎて、当時の障害者の命は50才と言われていた。私も50歳になったら死ぬと思っていた。子どもたちにも、50歳で死ぬから早く巣立ってちょうだいと言っていた。子供が巣立ってから離婚し、越谷へ来て20年以上たつ。

唯我独尊で他人と生きる

 旦那には申し訳ないけど、私は子どもに頼って生きるとか、相談して生きるとかに向いてない。わがままな唯我独尊だから。
 子どもたちとは、年3回だけ、私の兄がいる実家で集まるだけ。自分がずっと他人の中で生きてきたせいか、家族に相談するというより、周りにいる友達、他人と相談して乗り越えてきたので、普通のご家族のイメージと比べると、薄情な親。
 越谷に来てからも、「あと5年くらい」と思っていたが、去年とうとう70歳になり、最近真剣に老後のことを考えるようになった。

 (後編につづく)

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