職場‐地域-共に生きぬく 日吉孝子さん 2025年4月30日 すいごごカフェ 後編
うしろめたさが融けたとき
親が知人から脳性麻痺の手術の話を聞き、私を手術で治すために、北海道から家族全員で東京に出てきた。手術は効果がないという医師と出会ったことから受けるのを止めた。
当時、私のために家族がふるさとを捨てたことが、ずっとうしろめたかった。それが中学の終わりくらいまで、心のどこかにずっとひっかかって、申し訳ないと感じていた。
やがて、北海道の各地の炭鉱が閉山になってゆくニュースを知り、私の親は炭鉱で店を開いていたので、ああ、あそこで商売していても先行き見通しがたたないから、思い切ってみんなで出てきて正解だったんだなと思えるようになった。
はびこって生きよう 意味はいらない
(以下は、聴き手の澤則雄さんからの質問「ぼくが障害者の問題にかかわったのは、津久井やまゆり園事件がきっかけです。「障害者は不幸しかうまない」と植松は言いました。ぼくは障害者がどう生きてるのか知らなかったんです。日吉さんは、自分が障害者として生まれたことによって、自分は不幸だと思いますか。」に対して答えた部分です。)
若い時、生きてるのがつらかった。だけど、青い芝とか全障連とかやってる中で、自ら声を上げていくことが大事だなと感じた。それがからだに叩き込まれてると思います。だけど、それが墓穴を掘ってるなとも思う。
私個人の思いだけど、障害者だけじゃなくて、普通の人もきつい。この先どうなるか、わからない。だけど、そこそこでもしぶとく生きていくしかない。しぶとく、周りの人に声かけて行って、あんまり私は高尚なことは言えないけど、自分たちが街の中にはびこっていくことで、世の中少しずつ変わっていくんじゃないか。まず自分の周りの、知ってる人から、1ミリでもわかりあえることを発見して行かないと、世の中はつながっていかないと思うんです。
優生保護法は撤廃されたけど、ちがう意味での優生保護法は今もある。出生前診断とか、ちがう形での優生保護法。障害だってわかってるのに産むという決断がすごく勇気が要ることになっている。すごく腹立たしい。
私自身、光明養護小学部にいた頃までは、障害児が生まれたら3代たたると思っていた。母親、本人、生まれた子ども。その3代に、差別、偏見、排除があると思っていた。地域の中学に入り、高校生くらいになって、人間ってなんで生きてるのかなあとか、いろんな疑問をいつもぶつけていたら、友達から「山手線をぐるぐる回っているみたい」と言われ、「中央線もあるから乗り換えて見たら」なんて言われていた。
その時、生きるのに意味なんかないんじゃないか。意味を考えようとするから、命に優劣が出来ちゃうんじゃないかと思い始めた。
自分と自分の闘い
高校卒業するくらいから、かなりひらき直って、私が生まれてきたこと、存在することは、罪じゃないし、あるがままでいようと思うようになった。やっと高校卒業するくらいから、山手線から乗り換えができた。
じゃ、今の私、まったくそういう気がないかと問い詰められたら、なんとも言えない。ここまで生きてきたら、その気持ちをかくすよりも、えい、言っちゃえと。恥も外聞もなくなってきて。
他人に対しても、今の自分に何か言えるのは、そんなことない。
いちばん闘わねばならない相手というのは・・・まず自分対自分のバトル。その先に世の中だったり。自分の存在を認める自分が完全勝利してほしいなと、それが今の自分の望みですね。死ぬ前にそれをなしとげたいなというのが。
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